意根を十分に熏染し導くためには、意識が絶えず思惟しなければなりません。思惟せず観行しなければ、真に意根を導くことはできません。
もし意根に勝解がなければ、意識の思惟観行による理解は果たして意根を導けるでしょうか。意根は熏染を受けられるでしょうか。明らかに不可能です。意識が如何に造作を凝らそうとも、意根が勝解しなければ、意識の働きは全く無意味です。故に意根が影響を受けるやいなや、それは既に熏染された証であり、意識が伝えた情報を勝解したことを意味します。
意根に勝解がなければ、意識が如何なる情報を伝えても無駄であり、意根は自ら意識に法の了別を補助させようとは決断しません。了別後も意根が理解できなければ、意根は了別を決断しなくなるでしょう。そうして意根は次第に静寂に向かい、あたかも盲聾唖の如き状態となります。実際のところ、意根は常に意識に了別判別を求め、自らに伝達させることを好みます。これはまさに意根が意識の了別内容を勝解している証左であり、故に絶え間なく意識に了別・分別・思考・判断させ続けるのです。
1
+1