五根が五境に触れることは、何によって決定されるのでしょうか。五根は固定された存在であり、如来蔵が五境をそれぞれ五根に生じさせることで、五根は自然と五境に触れるのです。ただし触れること自体と、それを了別するか否かは意根が決定します。五根が五境に触れる際に五識を生じて五境を了別するかは意根次第であるならば、意根は五境の重要性や自身の関心対象を大まかに認識しているはずです。そうでなければ、意根がどうして五境を了別すると決定し、六識を生起させることができるでしょうか。仏は『楞厳経』において、六根が互いに通じ合い代替可能であること、意根が他の五根を代替できることを説き、具体例としてガヴァンパティの異舌知味や舜若多神の無身覚触を挙げられました。
ガヴァンパティが舌根を用いずに味覚を感知できたのはなぜでしょうか。通常、味覚は口腔の外舌根神経を経て勝義根の内舌根に伝達され、根と境が触れ合い、意根が了別を決定すると舌識と意識が生起します。意根がより重要な事柄に集中している場合、舌識と意識は生起せず、味覚を認識できません。外舌根がなければ、味覚は勝義根の内舌根に伝達されず、舌識と意識も生じないのです。
しかし味覚が勝義根に伝達されない場合でも、如来蔵が飲食中の味覚本質境に触れると、鏡が像を映すように如来蔵は本質境と同一の味覚を現出させます。この時、意根は如来蔵と共に外味境を感知し、如来蔵が外味覚を外舌根に伝達する過程全体にわたり、意根は外味覚に触れ、その大まかな様相を把握できるのです。
これは修行のない凡人における意根の働きです。大いなる智慧と深甚な禅定を具えた阿羅漢や地上の菩薩は、意根によって五境と法境を微細に了別できます。五境には法境が連動しており、外六境すべてを意根が触知し了別するためです。大修行者の意根は六境を認識でき、六識の了別と同等か、むしろ凡夫の意識よりも微細で究極的な了別が可能です。同様に舜若多神の無身覚触も、意根が身根に代わって触覚に触れ、触境を了別し、身識と意識を代替しているのです。
如来蔵が五境を伝達する過程で、意根は先んじて了別を行います。如来蔵が「近水楼台先づ月を得る」如く、五境を外五根に伝達する前に、意根が五境と法境の重要性・緊急性を判断します。重大な事態であれば、意根は即座に反応を決定し、六識を迅速に生起させて指示に従わせます。その後で意識が状況を理解するのです。もし意根が先立って六境・五境を了別しなければ、重大な危険に直面した際、どうして即座に緊急措置を講じることができるでしょうか。こうした反射的反応が生じる時、意識は事態を認識していません。ここに意根の非凡さが顕れており、我等は軽視してはならないのです。
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