初果から四果に至るまでの我見を断つことができるかどうかは、その者の身見・我見が軽微であるか深刻であるかによります。我見が軽微な者は、色身の状態をあまり気にかけず、わざわざ色身を特別に世話することに心を費やさず、色身の安危に過度に執着せず、恐怖感も少ないものです。このような者は色身や五蘊に固執しないため、我見を断じて証果を得やすくなります。色身五蘊を気にかけないため心の障りが少なく、禅定を得やすく、五蘊の観行を深め続けることができ、観行が力強くなれば我見を断つことも容易になります。
かつての修行者は善根福德が厚く、物質生活の発達していない世の中で生きながら、物欲に支配されず、欲望が少なく、享楽や娯楽を貪ることなく、無駄に自らの福徳を消耗することもなかったため、ひたすら道業に精進し続けることができました。現代人はこれとは異なり、享楽と快適な生活を貪りすぎ、心が様々な欲望に覆われているため、業障が消えるどころか逆に増え続け、道業はほとんど進歩しません。
かつての阿羅漢は頭陀行を実践できました。それは身見我見がなく、我執を断じていたため、自我の安危に対する恐怖心がなく、色身を取り巻く環境を気にせず、ただ様々な心の働きを滅して無余涅槃を証得することだけを求めていたからです。現代人は色身を非常に気にかけ、様々な栄養摂取や養生に努めますが、業障の関係で色身を養生できている者はほとんどおらず、かえって身見を増長させるため、修行上の突破は極めて困難です。色身への過剰な配慮は結局得るもの少なく失うもの多く、軽重を見失う結果を招きます。これらは現代の生活環境の影響に加え、善根福德が不足しているため、盲目的に自らの福徳を消耗してしまうのです。
したがって、我見我執を速やかに断じようとするなら、常に自らの色身五蘊を気にかけず、自分を過剰に世話せず、自己と生活環境を淡く見つめ、心を道業に用いるべきです。同時に、理由なく福徳を無駄遣いしないよう注意しなければなりません。福徳は修道にとって極めて重要であり、たとえ大菩薩並みの福徳があっても安易に消耗せず、一点一滴を積み重ねてこそ、最終的に仏の福徳を成就できるのです。
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