真の三昧とは定慧等持であり、定もあり慧もある、実証後の境界である。修行方法が異なれば次元も異なり、禅定の深浅が異なり、観行の智慧が異なれば、成就する三昧も異なる。観行の智慧を必要とする禅定はすべて未到地定あるいは初禅定を有していなければならず、初禅定における観行効果が最も優れている。初禅定がなければ未到地定がより具足しているほど良く、初禅定に近いほど良い。未到地定がなければ観行できず、心が非常に粗雑で浅薄であり、何の法も観察できない。未到地定が不足すれば、観行も効果を発揮しない。
二禅以上の定中では、意識に念いがなく観行思惟ができないため、必ず禅定から出て初めて意識による観行思惟に依拠できる。禅定が高ければ高いほど、出定後の定力も優れ、観行思惟はより細密で深透する。ただし意識が観行の法をすでに意根に伝達し、意根が明らかにしようとすれば、二禅以上の禅定中に意根が単独で思量参究でき、干渉を受けない。諸仏はすべて四禅定中に悟道したが、おそらく意根が独立して悟道し、意識の作用は大きくないと考えられる。
禅定を具足し観行を学べば、多くの修行者は自ら着手点を得て、いかなる法をも証得できる。これは非常に重要な修行方法と道筋であり、現代の学仏者にとって突破困難な瓶頸でもある。意識が仏法を理解した後、深く観行して証を求め、法義が意根に至れば、意根が法義と疑点を思量することを保証できる。思量が通達した後こそ非常に確信を得て、法を疑わなくなり、その心境は非常に安楽愉悦であり、解脱とはまさにそのような状態である。
5
+1