無明は実有の法ではなく、実体を有しないが故に滅することが可能であり、実法は滅することができない。例えば真如自性如来蔵の如し。智慧と無明は相対する関係にあり、無明あるところに智慧なく、智慧あるところに無明は消滅する。無明が尽き果てた時、阿頼耶識は無垢識へと転じる。八地菩薩以前の七識における無明が重き段階では、如来蔵の名称を阿頼耶識と称す。これはこの段階の衆生の七識五陰に分段生死の業が存することを意味する。智慧は後天的に生じるものであり、無明に対応する生滅変異の法である。しかし諸仏の智慧は永遠に退転せず滅することなく、恰も仏が再び衆生に戻ることのないが如し。
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