衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年12月22日    日曜日     第3 回の開示 合計2094回の開示

意根の遍計所執性は除去できるか

執着とは、滞ること、通じないこと、阻害、障害、結縛、生死、不自由、涅槃解脱ができない状態を指します。無執着とは、融通無碍、柔軟、しなやか、通達、豁然、貫通、光明を意味します。

意根が悪も執着せず、善も執着せず、不善不悪も執着しない時、遭遇する一切の法に障害なく、心が融通解脱して自在となり、成仏に至るに十分です。朱に近づけば赤く墨に近づけば黒し、意根の無明が重く執着が強い時は、悪法を遠ざけ善法に親しむことにより、悪法に染まらず次第に悪法を除去し、悪法を執着しなくなります。善法に親しむことで善法に染まり、心が善く解脱します。各人の意根がどのような法を執着しているか、日頃からよく観察し、自らが何を執着しているかを知れば、解決の道が開け、遅かれ早かれ執着を改めることができます。

意根の遍計所執性には、五蘊十八界に関わる人我への執着と、微細な法我への執着が含まれます。凡夫は両方の執着が深刻で、主に人我を執着し、法我に対する認識が浅いため、執着の度合いも深くはありません。阿羅漢や辟支仏の意根は人我見を断じたため、その後人我執を断ち、五蘊十八界の人我を執着しなくなります。十地の菩薩は不同程度の法我見を断じ、それに応じて法我執を断じます。菩薩が法我執を完全に断じた時、無明が尽きて仏となります。

一切の執着は誤った知見によって生じます。誤った知見を打破すれば、執着は次第に断除されます。従って意根に無明があれば邪見が生じ、遍計所執性が現れます。意根の無明が一部分断たれるごとに、遍計所執性は減少し、執着が次第に軽減され、最終的に尽滅して仏となります。このように、意根の遍計所執性は不断に深まる修行によって滅除可能であることが分かります。

——生如法師の開示
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《円覚経》抜粋

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