意識が理論的知見をほぼ透徹し、定力もほぼ充足した時、参禅と観行を始めるのである。坐禅であれ、歩行坐臥であれ、心に疑情を抱きつつ、常に観行思惟を続けなければならない。参究の過程において、意識はまず法義の理路を明らかにし、大まかな方向を理解し、思惟の内容を整理し、必要な基本情報を把握した後、法義を一点に凝縮して意根に委ねる。この時、言語文字は消え去り、心は空の如くなる。実はこの時、意根は空ではなく、法義を心に懸けて絶えず思量考究し、疑情を絶やさず精進を続ける。相当の定力が必要であり、定力が不足すれば意識の思惟が現れ、意根は法義に深く入ることができず、深甚な思量も継続的な精進も叶わぬ。
参禅に先立ち心を静め、定力を充足せしめよ。一日も心静まらざれば参禅観行は叶わず、一月静まらざれば尚更である。充足した定力を以て参究する時、参究すればするほど定は深まり、定が深まるほど参究の理路は明瞭となる。定が極めて深まる時、意根の参究すべき法義も少なくなり、甚深禅定に入る。出定後再び参究を続ければ、修行の力も強まる。時に禅定に入ることも良し、先ず入定し出定してから、行住坐臥に定力を保てば、精進して観行を深められる。参禅の段階は一歩一歩進め、徐々に琢磨すれば、充分な経験を積み、来世にも速やかに活用でき、他者もこの経験を吸収し得る。
全ての修定と摂心の方法は、結局意根に仏法を証得せしめる為のものである。当然意識には先ず一定の智慧が必要で、仏法を充分に悟った上で、意根に証得させねばならない。定無くして意識の理解を証得の智慧と見做せば、大いなる誤解を招く。定水に潤されざる智慧を乾慧と呼び、これは意識が理解するも意根が証得せず、実際の作用を起こさぬことを意味する。修行実践において問題が生じ行き詰まった時は、理論に立ち返り原理を修正し、方向を見定めて再び実践すべきである。
仏法の学習は必ず実証を要する。実証して初めて、生命体の身心は転換し、思想観念が変化する。意根が理を明らかにすれば思想観念は必ず転じ、世界もこれに従って変化し、全ての行為と処世の態度も転換する。これこそ修行の目的である。自ら既に理を解したと思い込み、これ以上修する必要無しとすべからず。意識の理解を基盤とせず実修を怠れば、事相において依然として貪瞋痴の煩悩に従い、結局は生死輪廻の中に留まり解脱を得られぬ。
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