衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年12月29日    日曜日     第1開示 合計2104開示

如何に功夫を用いて禅を参ずるか

意識が理論的な知見の部分をほぼ透徹し、定力もほぼ十分になったとき、参禅参究の観行を始めるのです。静坐であれ、行住坐臥であれ、心に常に疑情を持ち、いつでも観行し思惟し参究できるようにしなければなりません。参究の過程で、意識はまず法義の路数を思惟して明確にし、大まかな方向をはっきりさせ、思惟する内容を明確にし、必要な基本データをしっかり把握したうえで、法義を一つの点に凝縮して意根に託します。すると心には言語文字がなくなり、空になったかのようです。実はこのとき意根は空になったのではなく、意根は心の中に法義を掛けて懸念しており、神様は時々刻々と思量 (manasikāra/manana) し考究し、心の中の疑情は絶えず、非常に精進しています。相当良い定力が必要で、定力が良くなければ、意識の思惟が現れてしまい、意根は法義の中に深く入ることができず、深く思量 (manasikāra/manana) することもできず、まして連続して絶え間なく精進して用功することはできません。

参禅の前にまず心を静め、定力を十分に使えるように修めておかなければなりません。心が一日でも静められなければ、参禅も観行もしません。一か月静められなければ、なおさら参禅参法はできません。十分な定力を持って参究するとき、参究すればするほど定は深くなり、定が深くなるほど参究の思路は明晰になります。定が非常に深くなると、意根にはもう参究すべき法義があまりなくなり、甚深の禅定に入ってしまいます。出定してから再び参究を続ければ、功夫もよく力が入ります。たまに入定するのも良いことで、先に入定してから出定し、行住坐臥のいずれにも定力があれば、非常に精進して参究観行することができます。参禅の歩みは一歩一歩進み、少しずつ琢磨していくと、十分な経験が積み重なり、後世でもすぐに使いこなせるようになり、他人もその力を借りてこの経験を吸収することができます。

すべての修定と摂心の方法手段は、要するに意根に仏法を証得させるためのものです。もちろん意識はまず一定の智慧を持ち、仏法を十分に領悟してから、意根に証得させるのです。定がなければ、意識の領悟を証得した智慧と見なしてしまうと、それは大きな誤解です。定水に潤されていない智慧は乾慧と呼ばれ、乾慧というのは意識は分かっているが、意根は証得せず分からず、実際の作用を起こさないという意味です。もし修行実践の過程で問題が生じ、瓶颈にぶつかったならば、立ち戻って理論を探し、原理を改めて修正し、方向を見出してから再び実践に向かうべきです。

学法は必ず実証しなければなりません。実証してこそ、生命体の身・心・霊が転変し、思想観念が転変します。意根が道理を明らめれば思想観念は必ず転変し、世界もそれに伴って転変し、すべての行為や処世の方法・態度もそれに伴って転変します。これこそ修行の目的のあるところです。自分はもう道理を分かっているのだから、もう何も修めることはないと自惚れてはなりません。意識が道理を明らかにした基礎のうえで実際に修行しなければ、事相のうえでは依然として元のままで、依然として貪・瞋・癡の煩悩に随って転じてしまい、結果としてやはり生死輪回の中に入り、解脱を得ることができません。

——生如法師の開示
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