衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年01月05日    日曜日     第1 回の開示 合計2106回の開示

どのように三昧を成就しますか

三昧とは、定と慧が完璧に融合した境地を指します。『坐禅三昧経』には幾つかの三昧修行法が紹介されており、その中に観像念仏によって念仏三昧を成就する方法があります。観像念仏を修める際には、身心を端正にし、専心一意に他縁を離れ、眼前の仏像を一心に観想します。像を観じる時、禅定が具足し、戒律が具足し、観慧が具足し、戒定慧の三学が全て具足して、最終的に観像念仏三昧を成就し、定慧が等しく保持されます。その他の三昧修行も全て戒定慧が具足して初めて成就するもので、戒が具わらなければ心は散乱し、内に躁動があれば定は具足せず、定が具足しなければ観慧は生起せず、観慧が不足すれば三昧は生まれません。

『楞厳経』には二十五人の聖者が修めた様々な三昧の境地が記されており、いずれも戒定慧を具足し、甚深なる禅定の中で深く細やかに思惟参究し、甚深なる三昧を成就して広大な智慧を得ています。三昧の境地を得るには甚深な禅定が不可欠であり、第六識・第七識の観行の智慧が必須です。意根が果たす役割は意識を遥かに超えるため、甚深なる三昧を証得する時、大いなる神通が現前します。

『華厳経』における善財童子の五十三参では、参訪した各師匠がそれぞれ異なる三昧修行法を授けました。彼は禅定の中で一つ一つ深く観修し、一つの三昧を成就する度に智慧が増長し、段階を上り、遂には等覚菩薩の智慧に至りました。故に戒定慧は前行の方便であり、定は中間の紐帯、観慧は橋梁、三昧は道果です。五十三人の師が善財童子に五十三種の法を教え、彼は精進して修学し、道業が飛躍的に進歩し、他の菩薩が二、三の無量劫を要する修行期間を超越しました。その修行は真に神速と言えます。何故これほど迅速であったか。願力が弘大深遠であり、師を尊び道を重んじ、禅定が甚深で、智慧が鋭利無比、精進に極みがあった故に、一切の三昧を成就し得たのです。

——生如法師の開示
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