意識は因縁によって生じる法である以上、自主性を持たず、自らの意志で一念も生じない状態に留まることも、自ら進んで心を動かし念を生じることもできません。その全ての活動は意根によって主導され支配されています。意と法の因縁によって意識が生じ、根と塵が触れ合うことで意識が生まれますが、たとえ意根が法塵と触れ合っても、意根が何らの選択をしなければ、意識は依然として生じず、ましてや造作を為すことはありません。よって、主導する識(意根)と意識の根を離れて意識の在り様を論じることは、全て虚妄の議論であり、信頼できず、究竟的ではなく、多くの誤りを生じながら自覚できない状態に陥ります。問題が生じる根本的な要因は、定力が不足し、現量観行ができず、意根と意識の関係を深く透徹して観察できず、意識が運行する背後にある秘密と主因を深く観察できず、意識の非自主性を忘れ、意識の背後にある主宰者を見落としてしまうことにあります。故に、誰もが法を伝え論ずる際には過信すべきではなく、盲目的な自信は慢心に他なりません。
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