無明が無明と呼ばれる所以は、無明が不明であるがゆえにあります。不明とは根源を持たず、根源なきものは来処もありません。もし無明に根源と来処があるならば、無明はどこから生じたのでしょうか。無明が生じる以前が明であるなら、その明は仏にほかなりません。しかし衆生はかつて仏となったことがなく、もし仏となったなら再び無明が生じて衆生となることはありえません。
意根は無始劫以前より本来無明を具えており、元来不明なるがゆえに、本来仏ではありません。後にどこかから無明が生じ、明から不明へ変化したのではありません。現に見る世間に無明を生じさせる法は存在せず、無明には根源も来処もないのです。もし無明に来処があるならば帰処もありましょうが、来処はどこにあり、帰処はどこにあるのでしょうか。無明に帰処があるならば、ある所に集積し、やがて満ち溢れて再び意根に無明を具えさせ、仏陀が再び衆生となるでしょう。このようなことは起こりえず、さもなくば仏道を修めて成仏することに意味がなく、辛苦を重ねても生死の大苦から解脱できず、衆生は永遠に衆生のままです。
もし無明に来処があるならば、無始劫以前には無明は存在せず、無明は後から生じたことになります。無明がない時は仏であるはずですが、仏がどうして無明を生じて衆生となるのでしょうか。無明を滅する時、無明をどこに滅するのでしょう。無明には根がなく、実体もなく、来処も滅処もありません。明が来れば無明は自然に消滅し、両者は並存せず、一方が生じれば他方は消え、一方があれば他方はなく、秤の両端のように高低相等しいのです。
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