問:観行において意識が無我であることを観じる際、どうしても証拠が見つかりません。おっしゃるには、意識が一つの法塵を了別した後に消滅し、その後別の法塵において作用するとのことですが、この「知る」という意識心が依然として自我であるように感じられます。絶えず変化しているものの、この「知る」という性質は変わっておらず、困惑しております。
答:四聖諦は苦・空・無常・無我です。仏が説かれた四聖諦の順序に注意しなさい。無常・空・苦・無我、これらは連鎖的に繋がる次第です。観行を行う際にはこの順序に従い、最初の観点を完全に全面的に観じ終えた時、自然と第二の結論が導かれなければなりません。第二を観じ終えれば第三が導かれ、第三を観じ終えれば第四の結論に至るべきです。これが成されない場合、障礙が生じます。それは無始劫以来の固有の思想観念が自らを縛り、従来の観念を転換できず、新たな観念と認知を形成できないためです。例えば、無常の法は空であり得難く捉えがたいものだと知りながら、空の境地に入れずにいれば、観行は停滞します。
もし空の段階を完全に観じながら、空こそが苦であるという思想観念を形成できないなら、障礙が生じて観行は進展しません。五蘊が全て苦であると観じながら、その苦の根源が自我ではないとの結論に至れなければ、最後の隘路に直面します。この隘路を突破するには、あるいは各段階の障礙を乗り越え、従来の誤った思想観念を転換するには、深く深く思索を重ねる必要があります。
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