如来蔵はあまりにも神秘で深遠であり、私たちの意志とは全く関係なく存在しています。しかし如来蔵の本質を理解した後、特に如来蔵を証得すれば、私たちは如来蔵の鼻綱を取って導くことができます。善業をなせばそれに応じて善報を生じさせ、身・口・意の三業を清浄にすれば、如来蔵は善業を造り善種を貯え善報を生じさせることに協力せざるを得ません。
では如来蔵の鼻綱はどこにあるのでしょうか。意根こそが如来蔵の鼻綱を引く手なのです。意識が意根を引き、意根が如来蔵を引き、次々と連鎖しながら仏道を歩み、ついに彼岸に至って安住するのです。この道のりは苦しいでしょうか。無始以来の業力と相対するのですから、実に甚大な苦行です。業力が余りにも大きく、業障が余りにも重く、無明が余りにも深く、善根が余りにも薄く、福徳が余りにも小さく、願力が余りにも浅いため、私たちは修行の道中で三大阿僧祇劫にもわたる前進と後退を繰り返します。それはあたかも逆流を行く舟の如く、堅固な毅力なくしては成就することはできません。
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