衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年02月26日    水曜日     第2 回の開示 合計2162回の開示

楞厳経第三巻 耳根と声塵の虚妄

原文:阿難よ、汝さらにこの祇陀園中の食時を告げる太鼓の音、衆を集める撞鐘の音を聴け。鐘鼓の音声は前後相続きしている。汝の意いかん。これらは音が耳元に来るのか、耳が音の処へ往くのか。阿難よ、もしこの音が耳元に来るとすれば、私が室羅筏城に托鉢する時、祇陀林には私がいないように、この音は必ず阿難の耳元に来るはずである。ならば目連や迦葉は同時に聞くべきではない。ましてや一千二百五十人の沙門が一度に鐘の音を聞き、同じく食事の場に集まるなどということがあろうか。

釈:阿難よ、再びこの祇陀園で食事の準備が整ったことを告げる太鼓の音、衆を集めるための鐘の音を聴きなさい。鐘と太鼓の音は途切れることなく響き続けています。あなたはどう考えますか?この音は耳元にやって来るのでしょうか、それとも耳が音の元へ出向くのでしょうか。阿難よ、もし音が耳元に来るとしたら、私が室羅筏城で托鉢している時、祇陀林に私がいないのと同じ理屈で、目連尊者や迦葉尊者が同時にこの音を聞くことはできず、ましてや千二百五十人の修行僧全員が同時に鐘の音を聞いて食事場所に集まることなどあり得ないのです。

原文:もし汝の耳が音の処へ往くとするならば、私が托鉢から戻り祇陀林に住する時、室羅筏城に私がいなくなるように、汝が太鼓の音を聞く時、耳はすでに太鼓を打つ場所へ往ってしまっている。鐘の音が同時に鳴り響いても、汝は同時に聞くべきではない。ましてや象・馬・牛・羊の種々の音響があっても、往来がなければ聞こえるはずもない。これによって知るべし、聴覚と音声にはともに所在がなく、即ち聴覚と音声の二つの処は虚妄であって、もとより因縁生でもなく、自然性でもない。

釈:もし耳が音の元へ向かうのなら、私が托鉢から祇陀林に戻ると室羅筏城に私がいなくなるのと同じく、あなたが太鼓の音を聞く時、耳はすでに太鼓の場所へ行ってしまっています。そうであれば鐘の音が同時に鳴っても聞こえるはずがなく、ましてや象や馬、牛や羊の様々な音など聞こえる道理がありません。もし耳と音が相互に往来しなければ、何も聞こえないはずです。従って、聴覚と音声という二つの存在場所はともに虚妄であり、元来因縁によって生じたものでもなく、自然に具わる性質でもない、如来蔵の妙なる真如の性であることを悟るべきです。

——生如法師の開示
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