原文:阿難よ、汝は常に朝に手をもって頭を撫でる。このことについてどう考えるか。この撫でる行為によって生じる知覚は、何者が能く触れるというのか。その触知作用は手にあるのか、それとも頭にあるのか。もし手にあるならば、頭には知覚がないはずである。どうして触れたと言えようか。もし頭にあるならば、手は無用となる。どうして触れたと名付けられようか。
釈:阿難よ、汝が毎朝手で頭を撫でる時、この触覚の認識はどこに起因するのか。触知する主体は手か、あるいは頭か。もし触知作用が手にあるなら頭は感知できず、どうして触れ合いが成立しよう。もし頭が触知するなら手は機能を失い、どうして触れたと言えようか。
原文:もし各々に触知作用があるなら、汝阿難は二つの身体を持つべきである。もし頭と手が一つの触覚から生じるなら、手と頭は一体であるべきだ。もし一体ならば触れ合いは成立せず、二体ならば触れる主体はどちらか一方となる。能動的な側に属するものは受動的ではなく、受動的な側に属するものは能動的ではない。虚空が汝と触れ合うはずもない。故に知るべし、触覚と身体には所在なく、身と触覚の二者ともに虚妄であり、本来は因縁にも自然性にも属さず、如来蔵の本性である。
釈:もし双方が能動的触知を持つなら、汝は二身を持つ異常となる。触覚が単一の源から生じるなら頭と手は一体となり、一体同士の接触は成立しない。二体ならば触れる主体が不明となる。能動と受動は相対的関係にあり、虚空との接触はあり得ない。故に触覚と身体の実体は存在せず、両者ともに真実の性質を持たず、これらは因縁生でも自然生でもない如来蔵の顕現である。
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