縁起性空は小乗の法空の観点から、如来蔵が生じさせた一切の法すなわち世俗法を観察するものであり、大乗如来蔵の観点から観察するものではない。世俗における一切の法は因縁によって生起し、その形質は空であり、生滅し、壊れ、永続せず、得がたく、捉えられない。これが小乗法の観点から見た世俗法の性質である。ここで「因」とは一切の法を発起する源であり、過去に造られた業種、すなわち善・悪・無記の三業を指す。「縁」とは業種を促し現行させて果報とする人・事・物・環境を指す。因縁が具足すれば業果は実現する。ただ第七識のみは因も縁もなく存在するが、実際には第七識の存在にも因がある。それは第七識の一念の無明であり、この一念の無明が滅すれば第七識は滅びずに存在する。第七識の存在には縁がなく、無始劫以前から存在し、生起を助ける縁を見出すことができない。故に第七識には始まりがなく、無明に始まりがないため、無始無明と呼ばれる。
一切の法が縁起性空であるならば、因も性空の生滅であり、縁も性空の生滅である。故に因縁が滅する時、一切の法もまた滅する。ここには大乗如来蔵法は関与せず、如来蔵がこれら一切の法を生じさせたことは論じられていない。故に小乗の空法と呼ばれる。如来蔵に言及しない限り、一切法空は根本的な点に至らず、あたかも一切の法が存在するが故に縁起性空であるかのように見える。実際、大乗如来蔵の観点から見れば、一切の法は如来蔵そのものであり、実質的な一切の法は存在しない。一切の法は生じず、故に滅することもない。これらは全て如来蔵の変相であるから、何が生じ、何が滅するというのか。全て如来蔵を離れるものではない。
小乗の空は壊滅的な空であるが、大乗如来蔵の空性は不生不滅の空性心である。両者の本質は異なり、混同すべきではない。縁起性空は小乗法における空無の概念であり、未だ大乗如来蔵法の修行の内実に及んでいない。故に縁起性空は不究竟であり、一切世間法の究竟義が何であるか、その本質を悟る必要がある。
阿羅漢果や辟支仏果を証得した後、大乗法に転入して如来蔵法を修習し、如来蔵を証悟して初めて、次第に五蘊世間法を観行するに至る。これにより五蘊と如来蔵の関係、五蘊の生滅の真相を理解し、如来蔵の体性と五蘊世間の実質を徹底的に会得し、無明を滅尽して仏陀となる。ただ五蘊世間の縁起性空を悟るだけでは、小乗的な空を証得したに過ぎず、仏陀となることはできない。
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