五蘊十八界の空無我を観行するには、五根及び五根に対応する五境を観行するだけでなく、六識と意根、更に第六・第七識に対応する法処をも観行しなければなりません。実際、五境に対しては意根も対応しており、五境が現れても意根が関心を持たなければ、五識が生起して五境を弁別することはなく、六識は五境と法処の存在を知ることができません。六識の生起は全て意根が主宰し、その目的は五境と法処を弁別処理することにあります。従って意根は法処に対応するだけでなく、五境にも対応しているのです。六識が存在しない場合、或いは六識が弁別能力を失っている場合、これら諸法を観照し攀縁するのは意根単独の働きです。例えば身根の状態は、意根が常に如来蔵に随って了知しており、身体の全ての状況を時に意識や五識に知らせ、時に六識に知らせないこともあります。仮に意識に知らせたとしても、意識はその意味を理解できないのです。
五蘊の観行は主に識心の無我を観ずることが中心となります。五蘊の主体は識心であり、最も我と錯覚しやすい存在です。これに対し五根と六境は我所と錯覚され、我所の無我は比較的認識しやすいのですが、識心の我は最も看破が困難です。
識心もまた一つの法であり、如来蔵の中で生滅を繰り返し、刹那に生滅しています。如来蔵の立場から見れば生滅はなく、全て如来蔵性そのものです。世俗法の視点では、如来蔵を除く一切の法は生滅し、現象は絶えず変化し、有無は互いに対立します。変化するのは識心の刹那生滅や識種子の出力消滅、念々に起伏する状態だけではなく、塵境もまた刹那に変化し、四大種子が出力消滅し色法が生滅変異しています。
禅定を得た状態では、五蘊十八界の法は次第に独立し、互いの結び付きが緩やかになります。独立すれば各個撃破が容易ですが、結び付いた状態は複雑でより真実らしく見え、虚妄無我性を見極めるのが困難です。禅定中は識心の活動が緩やかで微細となり、法への執着が薄れるため覆障が減少し、事物の本来の姿が識心の前に顕現します。故に禅定の功徳は極めて大きく、事実の真相を明らかにし、識心の弁別性と認知性を客観公正かつ智慧ある状態に導きます。禅定を修めずしては智慧を開く機会を逃すことになり、誠に惜しいことです。仏語を信じ戒定慧を具足する者こそ、真に優れた仏弟子と言えるでしょう。
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