衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年03月04日    水曜日     第2 回の開示 合計2184回の開示

『楞厳経』第三巻 火大虚妄

原文:阿難よ。火性に我なし。諸縁に寄す。汝、城中を観よ。未だ食せざるの家、炊爨せんと欲する時、手に陽燧を執り、日前に火を求む。阿難よ。和合と名づくるは、我と汝の如く、一千二百五十の比丘、今一衆と為る。衆は一と雖も、其の根本を詰むれば、各々身有り。皆生まるる所有り。氏族の名字有り。舎利弗は婆羅門種、優楼頻螺は迦葉波種、乃至阿難は瞿曇種姓なり。

釈:阿難よ、火性には自体的な我性がなく、様々な火の生じる縁の中に潜んでおり、縁が具われば火は生じる。王舍城でまだ食事をしていない家が火を起こそうとする時、人々は日取り装置を手にし、太陽に向かって火を求める様子を見よ。和合とは何か。例えば私と汝、千二百五十人の比丘が一つの集団を成しているが、その根本を究めれば各々別々の身体を持ち、それぞれの家系と名前がある。舎利弗は婆羅門種、優楼頻螺は迦葉波種、そして汝阿難は瞿曇種姓である。

原文:阿難よ。若し此の火性、和合に因りて有らば、彼の手に鏡を執り、日に於いて火を求む。此の火は鏡中より出ずるか、艾より出ずるか、日に由来するか。阿難よ。若し日来る者ならば、自ら能く汝の手の艾を焼くべし。来たる所の林木は皆焼かるべきなり。若し鏡中より出ずるならば、自ら能く鏡より出でて艾を燃やすに、鏡何ぞ熔けざる。汝の手に執る処、尚ほ熱き相無し。如何にして融けん。

釈:阿難よ、もし火性が和合によって生じるなら、人々が鏡を持ち太陽に向かって火を得る時、その火は鏡から出るのか、艾から出るのか、太陽から来るのか。太陽から来るなら、手の艾を焼く火は途中の林木も焼くはずだ。鏡から出るなら、鏡自体が溶けるはずだが、手に持つ鏡に熱さもない。どうして溶けようか。

原文:若し艾に生ずるならば、何ぞ日鏡を藉りん。光明相接して然る後に火生ず。汝又よく観よ。鏡は手に執るに因り、日は天より来たり、艾は地に生ず。火は何方より此に遊歴するか。日と鏡は遠く隔たり、和合せず。火光の無からずして自ら有るべからず。汝猶お知らざるか、如来蔵中に於いて、性火は真空、性空は真火なり。清浄本然にして法界に周遍し、衆生の心に随い、知るべき量に応ず。

釈:もし火が艾から生じるなら、なぜ太陽と鏡が必要か。鏡は手に持ち、太陽は天から来て、艾は地に生える。火はどこから来るのか。太陽と鏡は遠く離れ和合しない。火が原因なく現れるはずがない。汝はまだ悟っていない、如来蔵において火の本性は真空であり、空の本性こそ真実の火である。清浄で本来のまま法界に満ち、衆生の心量に応じて現れるのだ。

原文:阿難よ。当に知るべし、世人は一処に鏡を執れば一処に火生じ、法界に遍く執れば世間に満ちて起る。起ること世間に遍き、方所有るか。業に循って現る。世間は無知なり、惑いて因縁及び自然性と為す。皆識心の分別計度なり。但だ言説有るも、実義無きこと全てなり。

釈:阿難よ、知るがよい。人々が鏡を持てばその場所で火が生じ、法界全体で鏡を持てば世間に満ちる。特定の発生源などない。業によって現れるのだ。世間の無知は、これを因縁や自然の性質と誤解する。全ては識心の分別推量である。言葉で表せるものは、真実の意味を持たない。

——生如法師の開示
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