衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年11月08日    木曜日     第2開示 合計990開示

《大乗顕識経》解説

賢護よ。識がこの身を棄て、他の生を受けるとは、衆生の死に際し、識が業障に纏われ、報い尽きて命終わることをいう。それはあたかも滅定に入った阿羅漢の識の如くである。阿羅漢が滅尽定に入る時、その阿羅漢の識は身を離れて転じる。かくの如く死者の識は身及び界を棄て、念の力に乗じて作られる。これによって彼がかくの如く「我、某乙が生平に為した所の事業は、臨終にことごとく現れ、憶念明瞭なり」と知るのである。身と心の二つがともに逼迫される。

臨終の者の前六識が滅する時、意根がこれを了知し、同時に色身の状況を観察し、もはや望みがないと知る。思心所は直ちに色身を離れ、新たに色身を求めようと決断する。阿頼耶識は意根に随順して徐々に色身を離れ、二者は共に離れる。阿羅漢が滅尽定に入り、さらに三界を離れて無余涅槃に入ろうとするのは、意根の思心所が決定するのである。かくの如く死者の識が色身と十八界をことごとく棄てるのは、意根の念力の作用に乗じたものであり、これら一切の作為は意根の駆使によるもので、意根の思心所の指揮を受けるのである。

その後、意根はなお胎を受けて色身を持ちたいと願う。阿頼耶識は意根のこの念力に随順し、あるいは中有身を出生させてこれを用いさせ、あるいは直接に天界に受生させる。意根は自らを滅することは望まない。なぜなら、それは自我への執着を断じておらず、常に自らの存続を願い、別の五陰身を用いようとするからである。阿頼耶識はこれに随順し、中有身を現起させる。これも意根の念力に乗じて作られるのである。阿羅漢が色身と十八界をことごとく滅するのも、やはり阿頼耶識が意根の念力に乗じて作るものであり、阿羅漢の意根が三界を離れ、生死を離れようと念ずれば、阿頼耶識はこれに随順して色身を離れ、いかなる法をも再び生起させない。一般の凡夫衆生が臨終の時、意根もまた色身を離れる決断を下し、なお次の世の身に転生しようと念ずれば、阿頼耶識も随順して中有身を現起させる。これも意根の念力に乗じて作られるのである。

衆生が臨終の時、自らの一生がかくの如く終わると知る。一生涯に為した善悪すべての事業が、ことごとく現れ出て、憶念は明瞭であり、少しも錯乱しない。これは意識心に現起した回憶である。

この時、衆生はまだ息を引き取ってはいない。人が去ろうとする直前、この一生の全過程が、映画の如く速やかに閃く。意識心は自らがこの一生に何を為したか、どこへ行くべきか、善道に生まれるのか、悪道へ行くのかを知る。その後、意識心は滅する。意根はもはや望みがないと知り、色身を離れる。自我への執着と貪愛を携え、かくして中有身が出現する。

意識がまだ消失していない時、身と心の二つがともに逼迫される。身と心はともに非常に苦しむ。身体の苦痛は四大の分解による。心の苦痛は、一には生命への絶望、一には親族との別離、一にはもはや世間を貪愛できぬことによる。かくして身と心は苦痛に苛まれるのである。

賢護よ。識とは何の義か。識は種子と名づけられる。能く衆類を生じ、雑多な業報身の芽を生ず。知覚・想念は識とともに苞まれる。苦を知り楽を知り、悪を知り善を知り、及び善悪の境を知る。故に識と名づく。汝の問う所の如く、いかにして識がこの身を離れ、余報を受けるのか。

釈:仏は言う、賢護よ、識とは何の義か?識は種子と名づけられる。これは種子識であり、種子を蔵する心体である。衆生の造った業の種子と五陰世間を出生する本有の種子を含み、阿頼耶識は種子に依って衆生の各種の複雑な業報身を生ずる。衆生の知性・覚性・念性・想性もまた同時に阿頼耶識の識体の中に包含される。衆生は出生して後に初めて苦を知り楽を知り悪を知り善を知り、及び各種の善悪の境界を知ることができる。これらの種子を含むが故に、阿頼耶識と名づけられるのである。汝の問う所の如く、阿頼耶識はいかにしてこの身を捨て離れ、余りの業報身を受けようとするのか?

阿頼耶識の中に五陰身の種子が蔵されているが故に、それは五陰身の芽を出生することができる。種子とは出生の義であり、能く一切の種類の業報身を出生する。いかなる果報もあり、いかなる業も造ったからである。身芽とは身根の芽を指し、一般には胚胎中の身根を指す。同時に衆生の知性・想性・覚性・念性の種子も阿頼耶識の中に含苞される。心体の中の識種子が輸送され出れば、衆生は知性・想性・覚性・念性を持つ。これらの心識の作用が現れ出て、苦を知り、楽を知り、好し悪しを知り、善悪の境を知る。知性はすべて六識の知であって、阿頼耶識を指すのではない。阿頼耶識は苦を知らず、楽を知らず、善を知らず、悪を知らず、善悪の境界を知らない。この二種の識性は混同されやすい。我々が経を読む時、経の中で言う識が六識を指すのか阿頼耶識を指すのかを分かち、正しく経義を理解すべきである。

仏は言う、汝の問う所の如く、なぜ阿頼耶識は色身を離れ、他の果報身を受けようとするのか?六道衆生の色身はすべて果報身であり、四種の聖人の色身もまた果報身である。ただしこれは善報身である。そして阿頼耶識自体は果報を受けず、それが変現した六識身が果報を受ける。阿頼耶識はただ衆生の果報を変現し、これを承載するに過ぎない。実際にはやはり意根が果報を受けるが、意根には苦楽受がなく、捨受である。もし六識心が報いを受けるならば、六識心は臨終時に滅し、次の世の六識心は新たなものであり、元の六識は果報を受けることができない。阿頼耶識はなおさら果報を受けず、苦も楽も感じず、完全に捨受である。それは畜生・餓鬼・人・天人などにもならず、何も為さない。故に報いを受けないのである。

——生如法師の開示
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