賢護よ、識がこの身を捨て、他生を受けるとは、衆生が死を迎える時、識が業障に縛られ、報い尽きて命終わることをいう。これはあたかも滅定に入った阿羅漢の識の如し。阿羅漢が滅尽定に入る時、その阿羅漢の識は身を離れ転じる。かくの如く死者の識は身と界を捨て、念力に乗じて作られる。これを知るが故に、我某乙が生平に作った事業は、臨終に悉く現れ、憶念明瞭となる。身と心、二つの受が逼迫するのである。
臨終の者に前六識が滅する時、意根はこれを了知し、同時に色身の状況を観察し、もはや指望なきことを知る。思心所は即ち色身を離れ、新たに色身を求めんと決する。阿頼耶識は意根に随順して徐々に色身を離れ、二者は共に去る。阿羅漢が滅尽定に入り、更に三界を離れて無余涅槃に入るのは、意根の思心所によって決定される。かくの如く死者の識は色身と十八界を悉く捨て、意根の念力作用に乗じる。これら一切の作為は意根に駆られ、意根の思心所に指揮されるからである。
その後、意根は再び胎を受けて色身を得んと欲する。阿頼耶識は意根のこの念力に随順し、或いは中陰身を生じてこれを用いさせ、或いは直接天に生を受ける。意根は自らを滅することなく、自我への執着を断じていない故に、常に自らの存在を継続せんと欲し、別の五陰身を用いんとする。阿頼耶識はこれに随順し、中陰身を現起する。これは意根の念力に乗じて作られるものである。阿羅漢が色身と十八界を滅するのも、阿頼耶識が意根の念力に乗じる故である。阿羅漢の意根は三界を離れ生死を脱することを念じ、阿頼耶識はこれに随順して色身を離れ、再び何らの法も生起せしめない。凡夫衆生が臨終を迎える時、意根もまた色身を離れることを決し、来世の身に胎を受けることを念ずる。阿頼耶識はこれに随順し中陰身を現起する。これも意根の念力に乗じて作られるのである。
衆生が死に臨む時、自らの一生がかくして終わることを知る。生涯に為した善悪すべての事業が悉く現れ、憶念は明瞭にして絲毫も錯乱しない。これは意識心中に現起する回憶である。
この時、衆生は未だ息を引き取らず、人が去らんとする直前、一生の全過程が映画の如く速やかに閃く。意識心は自らが生涯に何を為したか、何処へ赴くべきか、善道に生まるるか悪道に堕つるかを知り、その後意識心は滅する。意根は指望なきことを知り色身を離れ、自我への執着と貪愛を携えて中陰身を現出させる。
意識が未だ消滅せざる時、身と心の二つの受が逼迫する。身体の苦痛は四大分解による。心の苦痛は生命への絶望、親縁との別離、世間への貪愛の断絶による。故に身心は苦悩に煎られるのである。
賢護よ、識とは何の義か。識は種と名づく。能く衆類を生じ、雑報身の芽を成す。知覚想念は識と同苞す。苦を知り楽を知り、悪を知り善を知り、及び善悪の境を知る。故に識と名づく。汝の問う所の如く、如何にして識は此の身を離れ、余報を受けるや。
釈す:仏は言う、賢護よ、識とは何の義か。識は種と名づく。種子識たるもの、種子を蔵する心体なり。衆生の造業の種子と五陰世間を出生する本有の種子を含む。阿頼耶識は種子に依って衆生の各種雑多な業報身を生ず。衆生の知性・覚性・念性・想性もまた同時に阿頼耶識の識体に包含され、衆生は出生後に苦楽善悪及び諸々の善悪境界を知る。これらの種子を含む故に、阿頼耶識と称される。汝の問う所の如く、阿頼耶識は如何にして此の身を捨て、余の業報身を受けるや。
阿頼耶識には五陰身の種子が含蔵されている故、五陰身の芽を生ずることができる。種子とは出生の義、一切種類の業報身を生じ、如何なる果報も存在する。何となれば、如何なる業も造りし故なり。身芽とは身根の芽、通常は胚胎中の身根を指す。同時に衆生の知性・想性・覚性・念性の種子も阿頼耶識に含苞され、心体中の識種子が輸送されると、衆生は知性・想性・覚性・念性を有し、これらの心識作用が現起して苦楽・好悪・善悪境を知る。知性は全て六識の知であって、阿頼耶識の知ではない。阿頼耶識は苦楽善悪及び善悪境を知らない。この二種の識性は混同され易く、経典を読む際、経中の「識」が六識を指すか阿頼耶識を指すかを見分け、正しく経義を理解すべきである。
仏は言う、汝の問う所の如く、何故阿頼耶識は色身を離れ、他の果報身を受けるや。六道衆生の色身は皆果報身なり。四種聖人の色身も果報身であるが、ただし善報身なり。而して阿頼耶識自体は果報を受けず、その変起する六識身が果報を受ける。阿頼耶識はただ衆生の果報を変現し荷うのである。実際には意根が果報を受けるが、意根には苦楽受なく捨受のみ。もし六識心が報いを受けるならば、六識心は臨終に滅し、来世の六識心は新たなもので、元の六識は報いを受け得ない。阿頼耶識は更に報いを受けず、苦楽を感じず、完全に捨受である。彼は畜生・餓鬼・人・天などには成らず、何物にもならぬ故に報いを受けないのである。
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