意根が法と相応し、触発された時に初めて身心の反応が生じる。意根が以前に知らなかった道理を今知り、かつて誤解していた道理を今理解すると、身心の反応が現れ、自らの感情や心境を表現する。悟りを証得する前からこうした状態が現れることがあり、悟りを証得し心を明らかに悟りを開いた後は、身心の反応がより顕著になる。これが実証による功徳の受用である。こうした現象がない場合、意根が触発されていないことを示し、大乗・小乗を問わず、それは解悟に過ぎず、何の功徳の受用もない。解悟の結果がどうなるかは、命終の時に明らかになる。
したがって、誰もが自らの生死の大事に対して責任を持つべきであり、安易に高帽子を被ったり、未証のものを証得したと主張したりすべきではない。もし聖賢の心行と智慧の両方を備えていないのに、多少の仏法を理解したとしても、それは何の意味があるだろうか。多くの人が多少の仏法を理解すると、聖賢を自認するが、実際には実証による功徳の受用がなく、徳が位にふさわしくないため、遅かれ早かれ問題が生じる。特に命終の時には顕著である。
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