意根は刹那刹那に第八識に従い、第八識を離れることができず、第八識もまた刹那刹那に意根に伴い、両者は影の形に寄り添う如く離れません。意根がなければ、第八識は如何なる法も顕現させることができず、第八識を離れれば意根は滅し、如何なる法も見られることはありません。故に意根の見る法は全て第八識に由来し、第八識に依って法を見るのです。第八識が法を現じれば、意根はそれに依って見ることができます。さて問題です、意根が究竟的に見ている法とは何でしょうか。第八識の見る内容と同じなのでしょうか。
我々は知るべきです。第八識は聖義諦であり、意根は世俗諦です。故に第八識の見るものは世俗法の内実ではなく、意根の見る内容とは異なります。また意根も第八識の見る法の内実を見ることはできず、両者の身分地位は異なり、機能作用も異なります。法に対する見る角度、次元、次第、内実など、一切同じではありません。
両者の法を引生する機能も異なり、法を見た後の抉択作用も異なり、抉択後の処理も異なります。総じて、意根と第八識の法に対する作意・触・受・想・思は全て異なります。意根は世俗諦であり、第八識は勝義根だからです。世俗は無明と煩悩を表し、聖義諦は無無明無煩悩を表します。故に意根には無明と煩悩があり、第八識には無明も煩悩もありません。
意根が世俗法を見る故に煩悩を引生し、我執を生じます。第八識は世俗法を見ない故に世俗の煩悩はなく、清浄無為で我もありません。我々が法を説いた後、世俗相に落ちなければ、第八識と同様に我を引生せず、煩悩を生起せず、心は清浄となり大光明を放つのです。
究竟的に意根の見る法とは何でしょうか。意根が第八識の見るものを観ることができず、密接に第八識に依って世俗法を見るならば、第八識が法を見た後は絶えず伝播し顕現します。第八識が変現した法こそが世俗法であり、この部分こそ意根の見るところとなるのです。
第八識が見るのは最も原始的な法、根本的な法であり、七識によって加工されていないものです。七識はこれに触れることができません。第八識が原始法を見た後、法中の四大微粒子を吸収し伝播を始め、影像を形成します。これが世俗法の部分であり、意根はこの影像を見るのです。第八識の伝播過程では中間の媒体を経るため、四大微粒子は一部遮られ、第八識の伝える法も一部変化します。第八識の伝える法が途中で何度変化しようと、意根はそれに依って見ることができ、法が後頭部の勝義根に至るまで、意根は常に見続けられます。故に意根の見る法とは、第八識が原始法を見た後に変起した様々な次元の世俗法であり、第八識が一路伝える法を意根は全て見ることができます。従って意根は法の一路の変化状況を了知し、意識・六識にとって意根は未卜先知と呼ばれ、予感や霊感となります。言葉や思惟なくして一切法を判断し、多くは意識の論駁や抵抗を許さないのです。
第八識の見る原始法とは、当然法を構成する四大種子を離れず、種子の構造・相貌・比率・成分です。この部分は第八識に煩悩を生じさせません。もし七識が全てこの内容を見るなら、当然如何なる煩悩も生じないでしょう。世俗法ではないからです。如何なる世俗法の利益や利用価値もありません。
第八識が原始法を見た後、変現した世俗法を、更に見るでしょうか。当然常に見続けます。そうでなければ意根は見ることができません。しかし第八識は意根の見る法も見られますが、決して世俗相に落ちません。第八識は法の世俗相を見ず、一切法を見る時は法の聖義諦相、即ち法に含蔵された種子の内容を見ます。故に第八識は大千世界の一切法を見ますが、見ない法はなく、煩悩も無明もなく、不知もありません。光明は大千を朗照しますが、大千を所有しようとせず、我執・貪欲・瞋恚もありません。
七識の見る世俗法は全て誤っており、事実の真相ではありません。無明ある故に煩悩があるのです。法の事実真相とは何か。第八識の見る種子の内実であり、他に法はありません。一切は種子であり、他法無しです。全ての種子は第八識の所有です。故に第八識は大富長者であり、何かを所有する必要も、まして貪ることもありません。貧者にこそ貪欲があり、人間が貧しければ必ず何かを希求し、心が貧しければ貪り尽くすのです。
第八識は足ることを知り、且つ足る心も表現しません。心境がなく、感触もなく、決して感慨を抱かず、平静寂静です。
第八識こそが原始仏法、原始仏教です。第八識がなければ如何なる法もなく、意根すら存在せず、六識も五蘊もありません。第八識を学ばず、第八識が衍出した極一部の法だけを截取するのは愚痴です。故に仏は阿羅漢を愚人、凡夫を痴人と説かれたのです。
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