衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年04月12日    日曜日     第1 回の開示 合計2263回の開示

五蘊は意根によって用いられ、支配されます

脳幹出血により深い昏睡状態に陥り、身体が完全に麻痺し意識を失った患者がいました。止血治療後、神経は跳動を始めましたが覚醒せず、引き続き昏睡状態が続きました。その後触覚が戻り流動食を受け入れられるまでに回復しましたが、依然として意識は戻らず、かすかな認識はあるものの思考分析能力はありませんでした。このような昏睡状態の前期と後期において、意識を失った佐助さんの意根は、どのような働きによって色身の微弱な機能を維持していたのでしょうか。

多くの人が「意根は無能で何の役にも立たない」と言いますが、実はこの「無能」と思われる存在こそが、生命体を維持する独自の機能を果たしているのです。意識が消失した状態でも、色身・意根・第八識から成る生命体は依然として衆生の「我」です。この「我」は主に意根を指すのでしょうか、それとも意識を指すのでしょうか。どちらがより重要でしょうか。六識が消滅して意根だけが残った場合、「我」が存在しなくなり「意根は我ではない」と言えるでしょうか。六識の意識が滅んだ後、残されたものは無視できるほど微小なのでしょうか。それはもはや人間として数えられないのでしょうか。

昏睡状態では、意識は「目を動かそう」「口角を上げよう」「神経を刺激しよう」などと思考しません。この時仮に意識があったとしても非常に微弱で、思考機能はほとんどなく、境界を了別することもできません。すべては意根の強力な機能作用によるもので、色身に覚知を与え、嚥下や流動食の摂取などの活動を試みるのです。したがって意根がどのような心所法を有するかは明らかであり、「意根は無意味で機能も思考も念もない」などと断じるべきではありません。もし意根に何の意思もなければ、昏睡者が覚醒することは可能でしょうか。色身を奮い立たせて活動させる努力ができるでしょうか。

人間が頑強な生命力を持ち、あらゆる環境に適応し五陰世間を享受できるのは、如来蔵への感謝だけでなく、意根の不屈の執着あるいは毅力にも感謝すべきです。これらは主に意識が享受するものですが、意識こそが如来蔵と意根に感謝すべき存在です。意識が存在するおかげで、私たちは見聞覚知の性質を得て五陰世間を享受できるのです。

逆に意根も意識に感謝すべきです。意識という助手が六塵境を了別して働くことで、意根は世間の一切法を所有できます。昏睡時、意根が焦燥して意識を目覚めさせようとし、健全な五陰活動を求めることこそ、一切法が意根によって使用され、意根が一切法を「我」と「我が所有」とする証左です。「意根は意識なしでは無力だ」と言う人もいますが、意識がない時、意根は実際に何を為しているのでしょうか。それを観察できる者が果たしているでしょうか。

——生如法師の開示
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