黄檗禅師は云う、我がこの禅宗は、上代より相承して以来、決して人に知解を求めさせず。ただ道を学べと云うは、早くも接引の言葉なり、されど道は学ぶべからず。学解を情に存すれば、却って道に迷う…第一に知解を作すべからず。
また云う、古人は心利にして、一言を聞くや、便ち学を絶つ、故に絶学無為の閑道人と称す。今時の人はただ多く知り多く解することを欲し、広く文義を求め、これを修行と称す。多く知り多く解するは翻って壅塞を成すことを知らず。《黄檗伝心法要》
一片の緑葉を与えられ、一窠の甘藷を掘り出すことこそ証悟なり。人に大量の甘藷を求めつつ、一片の葉さえ見えざるは、他者の掘り出した甘藷なり。また葉を一屋敷分集めつつ、死に至るまで一本の甘藷をも発見せざる者あり。解悟にすら達せざるなり。
1
+1