三果や四果を証得なさり、貪瞋痴の煩悩を断じられた際、衆生をご覧になる心境は現在とは全く異なるものでございましょう。多くの言葉を口にすることはなくなるでしょう。なぜなら、話しても無益であるからです。それはちょうど大学教授が幼稚園の子供を見るようなもので、教えようがないと感じられることと同様でございます。仏陀となられた際、衆生を観察すれば、貪瞋痴の煩悩が蔓延し、あまりにも愚かであることに気付くでしょう。その時、深遠な仏法をかような衆生に説くことなど想像も及ばぬこと、むしろ馬の耳に念仏と感じられるに違いありません。同じ次元にいる時は、衆生を特別に感じることはありませんが、一旦その次元を離れ上から俯瞰すれば、その心境は到底理解し得ぬものであり、想像を超えるものでございます。故に説くにも意味が無いのです。諸仏菩薩や聖人方には理解者がおらず、孤独でいらっしゃいます。衆生は聖人方の境地を理解することも、聖人の心境を体感することもできません。
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