衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年04月16日    木曜日     第1開示 合計2273開示

禅定の修行について

観無量寿経の第一観は、もし完成できれば、禅定はすでに未到地定 (anāgamya-samādhi) を超えており、さらに初禅にまで到達できるでしょう。これは真実の修であり、容易でしょうか?まったく容易ではありません。未到地定を完成できる人はごくわずかしかいません。それは多くの世俗の法を失わなければ、達成できないのです。初禅まで修めば、極めて多くの貪欲の煩悩を降伏させる必要があり、世間への欲求がごく少なくなります。どの人にそれができるでしょうか?まして在家の人は、世俗の習気がそれほど重いのです。だから、この人は四禅を得た、あの人は四禅を得たなどと信じてはなりません。未到地定こそが大きな試練なのです。

人間界の世俗の欲望を降伏させてこそ、未到地定を得ることができます。欲界天人の欲望を降伏させてこそ、初禅定を得ることができます。最低限の欲望さえ降伏できないなら、相当に優れた未到地定を得ることは期待できません。人は何でも手に入れようとし、権力も金銭も勢力も名誉もすべて手に入れようとし、さらに目立ちたがって自分をひけらかそうとするなら、どうして禅定が得られるでしょうか?美味しいものを食べ、良いものを飲み、良い服を着て、快適な享受を貪るなら、どうして禅定が得られるでしょうか?世間のどんなことにもこだわるなら、どうして禅定が得られるでしょうか?修行を自分の身心と結びつけ、自分の一切の身口意行と結びつけ、絶えず照らし合わせて反省し、絶えず自分を修証してこそ、自我を降伏させることができ、こそ禅定を修み出すことができ、道業は絶えず進歩していくのです。

——生如法師の開示
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