意根は六根の一つであり、十八界の一つで、五蘊と十八界には一対一の対応関係があります。私が我執を起こす時、意根の自我が頭をもたげ、六識に現れるものは全て意根の心の働きであり、意根の心性が表れます。人の心理を観察できる者は、人の本質つまり意根の心行を観察できますが、観察できない者は六識の表面的な仮相しか見えず、仮相に惑わされます。今考えると、意根と意識を区別できない限り、我見を断つのは本当に困難です。
六根を観行する時、意根を観じることができます。それは意識を生じる根源であり、同時に主導する識です。この主導識の絶え間ない変化性、不確定性、不自由性、消滅可能性を観じれば、意根が永遠に存在せず、その心行が絶えず変化する無常のものであることを知り、従ってこれも自我ではないとわかります。
意識の機能作用が自我でないことを確認するには、まず意識が自己を反照し、意識が確認した後、禅定における深細な観行を経て、意根が意識の観行に参与し、さらに思量参究を重ね、最終的に意根も意識の機能作用が自我でなく、自我と異ならないことを確認します。また常に主導する意根の自我も、その虚妄無我を確認し、空なる無常であることを知らねばなりません。意識を生じる根源である意根も非我であり、まず意識が確認し、最終的に意根自らが確認します。これ以前に、五識の機能作用を観行しその生滅無常無我を確認すれば、幾つかの識心における我見・我所見は断除され、我所見も容易には断じ難いものです。
これら一切法の観行確認は、主に意根に確認させることにあります。意識の確認は第一歩です。意根が一切法を自我と見做すからこそ、六識に執着を取らせるよう指揮し、執着後は六識の執着作用を自己の作用と見做し、我が如何に如何にと考えるのです。この自我が眼前に現れ、明々白々となるのです。
意根は無始劫以来、五蘊を自我と見做し続けてきました。色蘊を自我と見做せば「身体が私である」(身我見)と言い、あるいは「私の身体」(我所)とし、色身を貪愛し、保養し、護持し、色身のために六識に一切の代償を払って業行を作らせ、悪業行をも含みます。
意根は受蘊を自我と見做し、時に我所とし、受蘊が即ち我であり、我が即ち受蘊であると考え、受蘊の機能作用を自己の所有とします。そこで受蘊のために、六識に一切の代償を払って業行を作らせ、悪業行をも含みます。
意根は想蘊を自我と見做し、あるいは我所とし、想蘊が即ち我であり、我が即ち想蘊であると考え、想蘊の機能作用を自己の所有とします。我能く想い、想う法こそ我が所有であると。そこで六識を指揮操作し一切の代償を払って業行を作らせ、悪業行をも含みます。
意根は行蘊を自我と見做し、あるいは我所とし、行蘊が即ち我であり、我が即ち行蘊であると考え、行蘊を自己の所有とします。我能く行い、行うものこそ我が所有であると。そこで行蘊のために六識を指揮操作し一切の代償を払って業行を作らせ、悪業行をも含みます。
意根は識蘊を自我と見做し、あるいは我所とし、識蘊が即ち我であり、我が即ち識蘊であると考え、識蘊を自己の所有とします。我能く識別し、識別するものこそ我が所有であると。そこで識蘊のために一切の代償を払って業行を作らせ、悪業行をも含みます。
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