衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年04月21日    火曜日     第2開示 合計2286開示

我見の落処をいかに観察するか

自分の我見の落ちどころを探るには、自分の貪求から観察することができます。求めすぎることはすなわち貪であり、不合理な要求はすなわち貪であり、求めるべきでないものを求めることがすなわち貪です。なぜこれほど多くの求めがあるのでしょうか。心の中に我があるからです。色身を見て我とし、受陰を見て我とし、想陰を見て我とし、行陰を見て我とするので、五陰のために貪り求めるのです。もし心の中に我がなければ、少欲知足となり、ほどころで止め、過度に探し求めることはなく、まして如法でない手段や不合理な方法、さらには人を損なうような方法で自らの利益を求めることは決してありません。

心の中に我のない人は、苦心して求め取ろうとせず、縁に随って生き、ましてや手段を選ばず求め取ることはありません。無我の人は物事を行うにあたって、常に他人の立場に立って問題を処理し、他人の利益を考え、他人の気持ちを思いやります。しかし、このような思いやりは必ずしも他人の無理な要求に従うことではなく、他人の長期的で究極の利益を出発点とするものであり、その心遣いや行為が必ずしも他人の理解と賛同を得られるとは限りません。

心の中に我のある人、我見の重い人は、我執も必ず重く、為人処事(人と接し物事を処理すること)がすべて自らの心を出発点とし、自己を重んじ、自分の観点や見方を基準とし、他人の意見や見方を求めず、他人の気持ちを考慮せず、往々にして自分の習気のままにやってから後で言うというように、先斬後奏し、他人の利益を侵害したかどうかを顧みません。もし他人が自分に従わなければ、怒り狂い、報復の手段を取り、自らの利益を取り戻し、心中の怨みの気を晴らそうとし、結果を顧みません。このように、自他の争いの過程で、自分が一度勝利するごとに、無我の修証の道の上で一歩後退し、生死の苦の穴に一歩近づき、今世と後世の苦難がいっそう重くなるのです。

善于観察(よく観察すること)は、修行の中で非常に重要な一環です。よく観察できれば、すべての物事の中の真の利害得失を衡量でき、長期的な利益は永遠に目先の利益より重要であり、長期的な効果は短期的な効果をはるかに上回るということがわかります。我見の重い人は視野が狭く、往々にして目先のわずかなことしか見えず、目先のきわめて小さな利益に両目を欺かれます。これがいわゆる業障です。

業障とは何を意味するのでしょうか。過去世の無明の業因が、自分の我見・我執を増加させ、智慧の生起発展を障害し、物事の真相を見えなくさせ、何が自分の真実の利益であるのかを知らず、無益なことをきわめて大きな利益として求め、その結果、道に背いて逆行し、損して得るところなし、となるのです。

衆生はみな、無明という用語は比較的含蓄があり、愚痴という用語は比較的粗野だと感じていますが、実はこの二つの言葉は同じ意味です。佛陀(ブッダ)はまさに愚痴という言葉で衆生の心性を概括しており、これはすでに十分に含蓄的です。佛陀は時には弟子たちに向かって一喝することもあります。咄(どっ)!痴人(ちじん)め!と。実は、どんな言葉を用いても、衆生の痴と愚を尽くし切って表現することはできず、何を言っても物足りず、何を言っても衆生は無動無衷であるので、ついには無言とならざるを得ません。須弥山を梃子(てこ)にしても、衆生の心の中の痴・愚・鈍を動かすことはできないのです。

——生如法師の開示
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意根の我見 (satkāya-dṛṣṭi)

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なぜ心に思ったことが成就しないのか?

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