両舌の俗語とは、双方を引き裂くことであり、一方にはあることを言い、他方には別のことを述べ、両者が互いに誤解するように仕向け、自らは漁夫の利を得ようとするものである。両舌は虚妄語を含み、意図的か否かを問わず、すべて罪業となる。三宝において四衆の関係や師弟関係を引き裂けば、それは無間地獄の業である。特に出家の師が摂受した弟子が、師を信じなくなり、教えに従わず、解脱できない誤った法や世俗法に転じる場合、師の弟子に対する法身慧命を大きく損なう罪業を負い、後世において双方に深刻な因縁を生じ、自らもその罪業の果報を背負うこととなる。
両舌の悪業は嫉妬心から生じることもある。嫉妬心はほとんどの者、いや全ての者が持つものであるが、重要なのはこれを制し、現行させて大悪業を造らぬことである。自我と他者への執着があり、自らを突出させて利益を得たい、他人から羨望や尊敬を得たいという願望が叶わぬ時、嫉妬心が生じる。嫉妬は無能の現れである。もし真に能力あれば、全ての利益は自然に得られるもので、何故他人を嫉む必要があろうか。
人は皆、自らが第一人者たることを願い、頂点に立ち衆人を凌駕せんと望む。もし真にその資格あれば、徳行と才能は必然的に最上となるはずで、第二位に甘んじることも叶わず、衆中に隠れても自然に顕れるものである。首位を望むなら、自らの徳がどの位にあるかを量るべきである。徳が地位に見合って初めてその位を得るのであり、さもなくば必ず災いを招く。自らの徳と能力を超えるものは耐え難く、例えば五十斤しか担げぬ体で千斤を背負えば、背骨も折れ砕ける如きものである。
利益を求める際には、まず自らの徳を量り、次に能力を測り、さらに人格品性を顧み、最後にその地位と勢いを担えるかどうかを考えるべきである。過剰な煩悩を増やさぬよう、徳が地位に見合わぬならば、むしろその位を求めぬ方がよい。
自らの能力を大きく超える野望を野心という。野心が過ぎれば狂気を生じ、狂気が極まれば命尽きる。修行者は世の一切を淡く見、無心無欲無求を旨とすべきである。そうして徳は次第に高まり、菩薩の格を備え菩薩位に至り、菩薩摩訶薩となる。菩薩位は無心によって得られるもので、闘争や嫉妬で聖位を得ることはできない。
いかなる団体においても、首位は争いで得るものではなく、徳行の感化によるものである。徳行によるものは拒むことも隠すこともできぬ。手段で得た地位は、福徳尽き勢力衰うれば堕ち、罪業あればさらに深淵に落ち、得失あい償わぬ。煩悩は我見我執より生じ、我執強ければ悪業を造る。自我を重んじれば益なく、我執強きほど堕落は深く、無心ならば軽やかに昇る。昇沈は全て自我の把握による。日常の縁に触れ境に臨み、不断に自我の虚妄を省み、心の行いを観照する。この観察が深まるほど、自我の把握は確かとなる。
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