ある人が我があるか無我かを判断するには、単に会話中の言葉に「我」という字が含まれるかどうかで決めつけてはなりません。仏が説法する際にも「我」という字を用いざるを得ない場合があり、これを避ければ自らの思想を明確に伝えることが困難だからです。仏は「我が○○である」と説きながらも、その心に我執は存在しません。逆に「我」という字を使わずとも、言葉の端々に我執が滲み出ており、強烈な自我意識が感じられる人もおります。
重要なのは、その言語表現における「我」が客観的な名詞概念として用いられているか、あるいは実体ある我への執着や妄念を伴い、過度の愛着や誇り・羞恥心などの主観的情感に満ちたものであるかを観察分析することです。
言葉の表面ではなく真意を汲み取り、発言の本質的な指向性を味わい分けることによってのみ、その人に我執があるかどうか、その程度の軽重を判断できます。我見を断じたかどうかを判定する際には、言語表現の表面的意味や相手が指し示す事柄に頼るべきではありません。言行が一致しているか、あるいは無理なこじつけがないかを注意深く弁別すべきです。これは一時的に偽装できるものの、永続せず、必ず本質が現れる時が来るものです。
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