衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年05月05日    火曜日     第3 回の開示 合計2324回の開示

覚醒の生命の泉

問:如何にすれば、光明を見ることができますか。曰く:直接に意根をもって観照することです。

曰く:段が高すぎるなら、踏み台を敷きなさい。

問:見て分別せず、聞いて分別せず、行じて分別せず。将迎無く、内外無し。これで光明を見られるか。曰く:石や木も分別しないなら、お前たちとの違いはどこにあるのか。問:分別はあるも心に留めず、即用即離すれば良いか。曰く:ならぬ。無明を用い、無明を離れても、何の益があろうか。問:師匠が「意根が作意すれば即座に止め、触れれば即座に止め、『受』せず、更に『想』『思』無し」と説かれたことを覚えていますが、これで良いか。曰く:これは定を修めるもので、究竟ならず。

問:諸法の虚妄を知れば、即ち実相無相を見るのか。曰く:阿罗汉も諸法の虚妄を見るが、彼らは実相を見たのか。曰く:彼らは知らず、大乗の者は知る。問:知って何の役に立つか。曰く:我は万法を影幻の如く見る時、即ち投影機を見るのだ。問:投影機を先に見るか、それとも影を先に見るか。曰く:影幻を先に見て、同時にそれが投影機の作用であると知る。問:投影機を見ずして、どうしてその作用と知るのか。推測か。曰く:万法は泡沫の如し、泡沫を見れば即ち大海を見る。問:衆生は無始劫来いつ泡沫を見ざる日があろうか、誰が大海を見たのか。曰く:衆生の心眼開けず、探究を知らず、本末を転倒する故、ただ影を見て、影こそ光の効果なるを知らぬ。当体に承当すれば、全て如来なり、波全体が即ち水なり。曰く:実に容易ならず、ただ勇往邁進せんことを願う!

曰く:我は波の外に水を見に行かぬ。問:波の外に何があるのか。波即ち水なり、誰がなお波を見ようか。曰く:波の外に法無く、衆生はただ波を見て水なるを知らぬ。仏法を学ぶ者も波を見て水と知らず、別に水を想像する。曰く:生死は常に水の中にありながら知らぬ、ただあまりに慣れ、あまりに密接している故。問:荘子が言う「魚は水に相忘れ、人は道に相忘る」は良いか。曰く:良し。雖も良しと雖も、生死は決せられず。問:狂心歇まず、もし歇めば即ち良いか。曰く:本頭を見出さずして、如何にして狂を歇まん。曰く:生生死死、我は来たこと無し。潮満ち潮引き、海水に生滅無し。

問:生死は幻法であり、衆生は常に涅槃に在りながら知らないのか。曰く:然り。問:我は涅槃の清浄の中に自らの生死を見、衆生の生死変化を見る。曰く:涅槃の中では皆涅槃すべきなのに、何故見有り生死有るのか。曰く:涅槃の中に見無く、寂滅道場なり。問:生死を見つつ迷わなければ良いか。曰く:見有れば即ち迷い、知見は即ち無明の本なり。

——生如法師の開示
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