仏道を学ぶ過程において、ある程度の進歩が見られ、まさに向上しようとする時、業障が即座に前に立ち塞がります。業障というものは目を持っており、特に重要な局面で待ち受け、上昇の分岐点で待ち構えています。意志力がやや弱い者はそこで行き詰まり、非常に弱い者は後退し、場合によっては以前の状態に逆戻りしてしまいます。私は多くの修行者を見てきましたが、行き詰まる者、後退する者、中には信仰を捨てる者さえいます。ただ信仰を失うだけならまだしも、三宝を誹謗し、これまで修めてきたものを否定するに至れば、その結果は考えるだけでも恐ろしいものです。
仏道の道程は極めて困難です。なぜなら全ての者が重い業障を負い、無始劫以来の業が多すぎるからです。これは逆水の行舟の如く、進まなければ退くしかありません。仏菩薩と護法神の加護がなければ、私たちは微塵の功徳も積めないのです。業障という関門だけは、如何なる手段を講じても自力で突破できません。業障の力はそれほど強大なもので、私たちは身口意を厳しく戒め、悪業を造らず、過信せぬよう細心の注意を払わねばなりません。
無始劫以来、衆生それぞれが異なる経験を積んできたため、意根の性質も様々に異なります。頑固な者も存在しますが、諸仏菩薩は巧みな方便をもって導き、柔と剛、勧めと戒めを使い分け、最終的には全ての衆生を解脱の道へと推し進めます。その過程は必ず曲折に満ち、道のりは必ず険しいものであり、身を切るような寒さを経験して初めて、梅の芳香を感じられるのです。
業障が顕現した時、どう対処すべきでしょうか。甘んじて受けることも一つの方法ですが、積極的に業障を転換させる努力も重要です。業は転換可能であり、戒律を守り、懺悔し、智慧をもって観行すれば、業障を転化・軽減できます。無始劫以来造ってきた無量の悪業は、ただ受けるだけでは到底償いきれず、煩悩が断たれなければ新たな悪業を造り続け、新たな業障を形成します。もし地獄の業障が現前したら、どうして耐えられようか?数十年かけて苦労して仏道を修めながら、命終時に地獄の業が熟し、地獄での報いを甘受するのでしょうか?灰を被る外道たちは、業を消滅させるため自らを際限なく苦しめますが、それで業が尽きると考え解脱を求めます。仏が説かれるように、無始劫以来の無量の悪業が、ただ苦しむだけで消えるでしょうか?決してそうではありません。従って受動的に受けるだけでは不十分で、積極的に智慧を用いて消滅・転化させる必要があるのです。
智慧による転換とは如何になすべきか。業障は愚痴と無明に起因し、五陰を実体ある我と執着するが故に生じます。今こそ無明を打破し、五陰に我無きを観じなければなりません。我が無ければ、我によって造られた悪業も存在せず、我見を断じれば三悪道に属する業障は消滅します。智慧が増すほど無明は破られ、業障はより多く消え去り、無明は薄れ業障は軽減されます。智慧は熱湯の如く、業障は堅氷の如し。絶え間なく熱湯を注げば、堅い氷もやがて溶け去るでしょう。最後に福徳を多く積むことが肝要です。福徳が大きければ業障を圧倒し、小さければ圧倒されます。福徳が大きければ業障は自然と遠ざかり、仏道修行は円滑に進むのです。
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