衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2020年05月08日    金曜日     第1開示 合計2329開示

業障をいかに化解するか

仏法を学んでいて、ある程度進んで功績が現れ、まさに上へ進もうとする時になると、業障がすぐに前を塞いで立ちはだかります。業障というものは目を持っていて、専ら肝心なところであなたを待ち構え、上昇する入り口で見張っています。意志力が少しでも弱い人は足止めされ、非常に弱い人は後退し、さらには解放前まで退いてしまうこともあります。私は多くの仏法を学ぶ人を見てきましたが、足止めされるか後退するかで、中には仏を信じなくなる人さえいます。ただ仏を信じなくなるだけならまだ納得できますが、恐ろしいのはさらに三宝を誹謗し、以前に修め学んだことを誹謗することです。そうなった場合の結果は、考えるだけでも非常に恐ろしいものです。

仏法を学ぶこの道は非常に歩みにくいものです。なぜなら、誰もが業障が重く、無始劫以来の業があまりにも多く大きいからで、水に逆らって舟を進めるように、進まなければ退くのです。仏菩薩と護法神の加護がなければ、私たちは誰一人として少しの成就も得られません。業障という関門だけでも、自分の力ではどうしても乗り越えられないのです。業障の力はそれほどまでに大きいのですから、私たちは皆、自分の身口意に極めて注意し、悪業を作らず、自信過剰にならないようにすべきです。

無始劫以来、それぞれの衆生が経験してきたことにはいくらかの違いがあるので、意根の性体もそれぞれ異なります。牛の鼻輪は確かにありますが、諸仏菩薩には善巧方便があって引いてくださり、軟らかくも硬くも、勧めたり罰したりと、最終的には衆生を解脱道へと押し上げてくださいます。その間の過程はきっと曲折に富み、道はきっと苦難に満ちています。寒さが骨に徹するような経験を経てこそ、鼻を突く梅花の香りを迎えることができるのです。

業障が現前したとき、どう対処して乗り越えればよいのでしょうか?甘んじて受け入れることも一つの面ですが、積極的に努力して業障を変えていくことも非常に重要です。業は転化できるものであり、持戒、懺悔、智慧の観行を通じて、業障を転化させ軽減することができます。私たちは無始劫以来、数え切れないほどの悪業を作ってきました。受け入れるだけではすべてを承受し尽くすことはできませんし、まして煩悩を断除していない以上、引き続き悪業を作り、新たな業障を形成してしまいます。もし地獄の業障が現前したら、どうして承受しきれるでしょうか?何十年も苦労して仏法を学んできたのに、命終のときに地獄の業が成熟し、甘んじて地獄で果報を受けるつもりでしょうか?投灰外道は解脱のために業障を消す方法として、無限に自分を苦しめて苦を受けることで、そうすれば業は消滅し断じ尽くされて、その後解脱できると考えています。仏は、無始劫以来のそれほど多くの悪業が、苦を受けることですべて消滅すると言われたでしょうか?全くそんなことはありません。したがって、受動的に受け入れるだけでは究竟の方法ではなく、さらに積極的に智慧を用いて消除し転化しなければならないのです。

智慧を用いてどう転化するのか?業障は愚痴無明のために生じるものであり、五陰を実有の我と見なして、我のために業障を作ったのですから、今こそ愚痴無明を破除しなければなりません。五陰は無我であると観照しなければなりません。「我」が既に無ければ、「我」を用いて作った悪業もまた無いのです。我見を断除すれば、業障のうち三悪道に属する部分は消除されます。智慧が大きいほど、破除される愚痴無明が多く、消除される業障も多くなり大きくなります。こうして無明はますます薄くなり、業障はますます軽微になっていきます。智慧は熱湯のようであり、業障は堅氷のようです。絶えず熱湯を注ぎ続けるならば、堅氷は遅かれ早かれ溶けてしまいます。最後に、さらに多く福を修めなければなりません。福が大きければ人を圧し、福が小さければ圧されるのです。福が大きければ、業障は迂回して通り過ぎていき、仏法を学ぶこの道も順調に進むようになるのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

福德はどのようにして得られるのか

次へ 次へ

重罪軽報の原理

ページトップへ戻る