衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年11月12日    月曜日     第2開示 合計1005開示

理解と実証には大きな隔たりがあります

もし諸相が相ならざることを見るならば、すなわち如来を見る。このように理解する者が、自らが感知する一切(あたかもテレビ画面に映し出される内容のごとく)を、常に如来蔵(あたかもテレビ画面のごとく)における材質と機能の幻化であると認識し得るならば、この者は如来蔵を証得したのであろうか。決してそうではない。まだ程遠い。聞き及ぶことと思惟することは、実証から隔たる距離が極めて大きい。その隔たりこそが菩薩の六波羅蜜行である。

以上の内容は全て意識心による最も粗雑な理解に過ぎず、巷説を聞くことに類似している。ただしこれは仏経から聞いたもの、あるいは書物から得たものであり、実際に証得したものではない。現量観察によって得られたものではなく、誰が語ろうと理解の域を出ない。真に実証を得る時、それが何地の菩薩であるかは測り知れない。経典に説かれ、他者も語る内容は個人の実証に属さず、個人が実証すれば極めて具体的かつ確実に知り得るものであり、曖昧模糊とした概略ではない。如来蔵が五蘊に具体的に如何なる作用をなすかを証得するには、参禅を経て実際に工夫を重ね、その過程で一点一点探究を積まねばならない。工夫をせず自らの感覚と推測によって僅かに理解したとしても、実際に如来蔵が如何なる作用をなすかは全く知り得ず、茫然自失のまま全ての無明が存続し、智慧の生起を見ない。

一切法がテレビ画面の如きものだと考えることは、実証や親証に等しからず、証得とは称されない。根拠を欠く故である。一切法が如来蔵によって創造され、我々が一真法界に生きていると考えることは悟りではない。仏の一言で衆生が容易に悟るならば、仏法は余りに容易であり、三歳の童子もこの言葉を聞いて粗方理解すれば即ち悟りとなるならば、成仏は如何に容易なことか。無量劫にわたる生死の業障も何ら障礙とならず、数多の無明も問題ではないことになるが、実際にこのような容易な事は存在しない。

参禅を経ず、調査検証もせず、資料証拠を収集しなければ、意根が如何にしてこれらの説を真理と認めて信受し得ようか。真の証悟は第八識が運作する細部を知り、具体的に如何にして万法を出生し、衆生の五蘊十八界を出生させるかを悉く理解せねばならない。菩薩の六波羅蜜を全て修める必要がある。仏や他者が説いた一部の内容を理解するだけでは、如何に解釈を展開しようとも自ら参究して証知したものではなく、現量観察がなく心が地に着かず、空虚である。このような理解から証悟までの距離は、一年かも知れず、三十年かも知れず、一世紀かも知れず、あるいは一無量劫を要するかも知れない。意識が理解したものは無力であり、瞬時に消滅する。細部は意識すら知らず証せず、ましてや意根が如何にして知証し得ようか。決定的瞬間には意根が主導権を握り、意根が確認しなければ無明は残存する。意識の全ての理解は臨終時に児戯の如く泡と消え、後世の趣向を決定し得ない。

心に多く問いかけ、全ての疑問を解き明かすことで、証悟に縁する可能性はあれど、必ずしも証悟ではない。仏法はこのように神聖にして臆測を許さない。

——生如法師の開示
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