まず、家とは何か、家の概念について述べます。家には、第一に、家族全員が共に生活し起居するための家屋があります。第二に、家族、すなわち両親、配偶者、あるいは子供が互いに寄り添い、依存し支え合います。第三に、飲食、起居、娯楽など、共通の世俗生活があります。第四に、共同生活の基盤となる共有財産や物資、そして経済的な収入源があります。第五に、共通の生活目標と規則があります。
これらの条件が組み合わさって一つの家庭を形成しますが、これは娑婆世界の欲界人間にのみ適応します。なぜなら、人間界の衆生は欲望が強いため、男女の欲事を他人に覗き見られて恥をかかないよう、家屋で覆い隠す必要があるからです。娑婆世界の人間界の最初期、つまり二禅天人が地上に降りてきた時、彼らは地肥(じひ)を貪り食したため体が重くなり、天宮へ飛び帰ることができず、やむなく地上で生活し人類となりました。最初の人類である二禅天人は男女の区別がありませんでした。後に人口が増え、人間同士に情が生まれ互いに貪愛するようになると、人類は男女の姿に分かれました。これらの男女が欲事を行う際、最初は他人を避けていましたが、後に家屋を建て、次第に家庭を形成し、子供をもうけるようになりました。ここから初めて家庭が生まれ、家が出現したのです。
このように、家は男女、そして男女の欲事から切り離せません。もし男女の欲事がなければ、人々は家庭を形成せず、子供も生まれないでしょう。淫欲が薄い欲界の天人には家庭がなく、北倶盧洲(ほっくるしゅう)の人間界にも家庭はありません。色界の全ての天人には男女の区別がなく淫欲もなく、皆禅定に入っているため、家庭はさらに存在せず、家計を支えるために奔走する必要もなく、経済的な収入源も不要です。したがって、家は娑婆世界の人間界にのみ適応し、出家という事柄も娑婆世界の人間界にのみ存在します。家庭がなければ出家の是非は問題にならず、さらに経済的な収入源が不要で家計を支えるための奔走も不要であれば、もはや在家(ざいけ)には属しません。
では、仏菩薩が住まう仏国土は、すべて天界の環境、あるいはそれ以上に優れた環境であり、男女の区別はなく、世俗生活もなく、生活のために奔走する必要もなく、世俗の事業もありません。なすこと全ては衆生の利益と安楽のため、すなわち仏事です。したがって仏菩薩は、娑婆世界の人間界のような出家の姿を再び現す必要はなく、煩悩の糸(髪)を剃り落とす必要もありません。彼らには煩悩がなく、娑婆世界の人間界の出家衣を着る必要もなく、色身(しきしん)そのものに束縛はなく、仏菩薩も衆生も色身の相(すがた)に執着しません。彼らが現すあらゆる相は、出家の相であって在家の相ではありません。なぜなら、在家としての事柄が一切存在しないからです。
私たち娑婆世界の人間界の衆生は、十方諸仏と同列に論じることはできず、全ての等覚・妙覚菩薩とも同列に論じることはできず、十地菩薩とも同列に論じることはできません。この五濁悪世(ごじょくあくせ)の衆生が、出家の相を現さず、出家しなくても、出家者と同じであるなどと考えてはなりません。
実際のところ、この世で生活する各人にとって、出家と在家の差は甚だ大きいものです。在家者は世俗生活に振り回され、そこから抜け出せず、修行の道において非常に大きな制約を受けています。多くの人が世俗生活の負担に悩まされ、修行に専念できず、たとえ出家を望んでも、業縁の引き寄せによって出家できなかったり、何度か出家してもまた業縁に引き戻されたりする人もいます。これが娑婆世界人間界の実情です。私たちはこの現実を直視せざるを得ず、在家と出家は同じで違いがないなどと言い張るわけにはいきません。実際、その差は非常に大きいのです。各人は自ら省みて、自分は出家者と同じだなどと、自分自身に高慢な評価を下すべきではありません。
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