どのような業が防ぎやすく、どのような業が最も防ぎ難いのでしょうか。どのような業は粗雑で断ちやすく、どのような業は微細で断ち難いのでしょうか。どの業を先に断つべきでしょうか。
身・口・意の三業はすべて意根の支配と指揮を受けます。身業は六識の行為による造作であり、口業は六識の行為による造作です。意業は意識の心行心所法と意根の心行心所法に分かれます。
身行と口行は心の支配を受け、心がなければ身口の業を造作できません。身口の業は六識が造作しますが、六識は意根の指示を受けます。しかし意識が理をわきまえれば意根を抑え込み、強制的に身口の業を造作させないようにできるため、身業が最も断ちやすく、口業はその次で、断ち難いのは意識の心行、最も断ち難いのは意根の心行です。
意根は非常に抑え込み難く降伏させ難いため、意根の意業は貪・瞋・痴が絶えず続きます。ただし意識が理をわきまえ因果を知るため、身口が悪業を造作しないよう意根を抑え込みます。もし意根の煩悩が重ければ、身口も抑えられず必ず悪業を造作します。
したがって身体で殺生・盗み・邪淫を造作しないのは比較的容易で、口で両舌・妄語・綺語・悪口を造作しないのもやや容易です。最も難しいのは意根であり、貪・瞋・痴の念を抑え込むことができず、断除することが一層困難です。
ある者は身体で戒めを守るのが困難で、口で戒めを守るのも困難だと見るや、言い訳して「私は意業さえ守ればよい。心が清浄で意業を犯さなければ、身口がどのような状態でも戒を犯したことにはならない」と言います。これは倒錯した考え方と行いです。もし身体の造作さえ制御できなければ、なおさら意根の煩悩の念を制御できず、口業の造作を止められなければ、なおさら意根の煩悩の念を止められません。
意根の煩悩の念を止められるのであれば、それは三果以上の聖者にのみ可能なことで、凡夫がどうして直接意根の意業を守り、意根を清浄に保って戒を犯さないようにできるでしょうか。
小乗の五戒・八関斎戒・出家比丘戒・比丘尼戒は、一般的に身口の悪業を戒めることを主とし、身口が犯さなければ心中に邪思邪念があっても戒を犯したことにはなりません。大乗の戒である梵網経菩薩戒は主に心を戒め心を修め、ついでに身口も戒めます。瑜伽師地論の菩薩戒は、すでに煩悩を断じた地上の菩薩が守るべき心の戒であり、すべて衆生の利益を最優先とします。衆生を利益し得るのであれば、身口は小乗の戒行と一致しなくてもよく、清浄な意根の心と一致すればよく、意根が小乗戒律に背かなければ、すべて衆生のための心行が大乗菩薩の心行となり、大乗菩薩戒律の規範に適います。貪・瞋・痴の煩悩を断じていない凡夫や賢位の菩薩は、私心と煩悩があるため、瑜伽師地論の菩薩戒を受持し守ることはできません。
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