この境地は粗浅な禅定から智慧を引き起こし、智慧が深い禅定を生み、深い禅定が深い智慧を生じ、三昧に入って大智慧の境界を開くものである。
上座して結跏趺坐した後、数回深呼吸し、気を丹田に沈め、心が静まったら頭を空っぽにし、空の頭の中が空虚であることを観じる。さらに心が静まってきたら疑情を起こす。この疑情とは、色蘊がなぜ空であるか、勝義根がなぜ空であるか、六塵がなぜ虚妄であるか、六識がなぜ幻であるかなど、現在解決すべき疑問である。毎回一つの単純な疑問のみを抱き、定慧が不足している時に多く深くを貪ってはならない。さもなければ定力が退失し、智慧も得られない。
このように疑情を抱いたまま、急いで参究せず、意識を動かさず、思惟せず、ただ疑問を見つめること。こうして見つめ続けると定力が次第に深まり、ある時点で自然に心の動きが生じ、この問題を明らかにしようとする。これが意根の勢いの現れである。明らかな動きがあればそれは意識の動きなので、必ず制止し、意識の浅い思惟は益がない。意根の心の動きは極めて秘やかで観察し難く、深く深いものだが、実際の問題を解決し、甚深の智慧を開くことができる。
意根の念いには言語も文字も音声もなく、静寂で神秘的なもの。次第に一点の明かりが現れようとし、かすかに発し、脳のスクリーンに光明が現れ、答えが今まさに出んとする。そしてぼんやりと微かに現れ、次第に多くの答えが浮かび上がるが、まだ明確ではなく、朧げながらも光明と信心を得る。
さらに深い禅定で細やかに秘かに参究を続けると、思考が次第に明瞭になり、心が澄み渡り、脳が透明になり、歓喜に満ちて三昧に入る。ついに答えが尽き、疑問が晴れたら三昧から出定し、意識に過程を整理させ、論理を整え、意根が再確認すれば、定慧が円融無礙となる。
この三昧力によって一切の疑難を究め、無明を破れば成仏も期せられる。まして菩薩や阿羅漢たるは言うまでもない。ただ衆生の福徳が備わらぬことを憂う。福徳が不足すればするほど福を生じ難く、禅定を生じ難く、智慧を生じ難い。これが悪循環である。如何に突破するかは各人の思惟による。
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