菩薩は時として衆生に随順して戯れに参加することもありますが、実際の意根の心行いと戯れは一致せず、意根は絶対に清浄であり、衆生に見せる表面は清浄でない場合があります。なぜこのようなことをするのでしょうか。衆生を摂受し、衆生を度するためです。菩薩は衆生を降伏させるためにいくつかの手段を用いなければなりません。目的が純粋で結果が善であるならば、手段はやむを得ないものです。ただし、菩薩の意根がまだ清浄でなく煩悩がある場合、非常手段を取ることはできません。なぜならそれは意根の煩悩と相応し、業種を残すからです。三果以上の地上菩薩は意根の煩悩現行を断じ、心が煩悩と相応しないため、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒などの手段を用いて、表面上は凡夫と同じ行いをしながら、実際には凡夫を降伏させ正道に帰依させることができるのです。
菩薩が人間界で遊行しようとするならば、必ず遊戯の本事を備えていなければなりません。心の行いが人間界を超越していてこそ、人間界に拘束されずに済むのです。そうでなければ必ず人間界の泥沼に深く陥り、自ら抜け出すことができなくなります。自分すら自らを救済できないのに、どうして衆生を救済できるでしょうか。
人間界で遊行することは人間界を享受することとは異なります。人間界を享受する者は、決して人間界で遊行することはできません。享受せず執着しない者こそ、人間界で遊行する資格と本事を備えているのです。そうでなければ遊行とは呼べず、むしろ牢獄に身を沈めたと言うべきでしょう。
16
+1