問:映画俳優が悪役や悪人を演じる時、非常に真に迫って深く役に入り込んだ場合、如来蔵はどのようにその俳優の業行を記録し、業種はどのようになるのでしょうか。
答:演劇とは仮装とも呼ばれ、心の働きは真実のものではありません。いわゆる演じる仮装とは、意識がどうあるべきかを認識しつつ、意根の思想とは一致せず、行為は意識の作為によるものです。意識はできる限り意根が持たない心の働きを真実らしく表現し、あたかも真実の出来事であるかのように人々に感じさせます。
意識が主観的に現出する業行と、意根が主導統制して生じる業行には極めて大きな差異があり、蓄積される業種が異なれば果報も異なります。例えば家庭内で子供が悪事を働く場合と親が悪事を働く場合では性質が異なり、受ける罰則も異なります。子供が受ける懲罰は軽く、親が受ける懲罰は重いのです。
そして子供が懲罰を受ける際には必ず親に連帯責任が及び、親が代わって罰を受けることになります。意識の主観的な造業は軽微ですが、懲罰はやはり意根に及びます。意根が自主的に造業すれば、懲罰は全て意根自身に降り掛かり、親が一切の責任を負うことになります。ただし親が受けるべきものは子供が具体的に受け継いだり代わりに受けたりすることもあり、それは親が尊い存在だからです。同様に意根の果報も具体的には六識が代わって受け、意根の主人が尊い存在だからです。
造業時にどのような業種を蓄積するか、将来どのような果報を受けるかは完全に意根の心行にかかっており、あるいは主として意根の心行によります。演じるのは意識であり、悪人を装って悪事を働く仮装であって、意根は悪ではないため、本質的に悪でなければ悪業の種子を蓄積することはできません。もし意根が戯れの中で心を動かし、劇中と同じ心行を起こしたなら、もはや演劇ではなく純粋な造業となり、業種はありのままに記録されます。意根が心を動かさず意識だけで仮装した場合でも業種は存在し、全ての行為作為は記録されます。ただし業種の性質は異なり、どのような業種と果報があるかは完全に意根の心行によって決定されます。
もし意識が演劇過程で十分に演じきれず、似ていない場合、それは意識の技巧が不十分であることを示し、意識が悪人役にあまり適合していないことを意味します。同時に意根が悪くないため、意識を悪に染めさせず、やむを得ず悪人を装いながらも十分に発揮できないのです。しかしたとえ意根が非常に善良な人であっても、意識の演技技巧が優れていれば、役に入り込むのが早く深くなります。蓄積される業種も演じ装う業種であり、意根が悪い業種ではないため、果報も悪くありません。長期間悪人を装い続けると、暗黙裡に意根を染め、意根が知らず知らずのうちに悪に慣れ親しみ、適応してしまい、ある時ふと悪事を働く可能性があります。
同様の理屈で、仏法修証の過程において意識だけが証果を得て意根が証果を得ない場合、それは仮の証得であって真の証得ではなく、演劇とほぼ同様です。業種は蓄積されますが善果は軽微です。真の実証とは意根が主導する証得であり、主人が証果を得れば配下に何の言い分があろうか、主人に従って果報を受け果位を享受します。意根の主人が証果を得ていないのに、配下の意識が単独で証果を得て果位を享受するなどということはあり得ません。まさか使用人が主人の上に立ち、主人より高位に位置して主客転倒するようなことがあるでしょうか。そのような道理は存在しません。
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