気功を練る際に意念で気を導き、運び、集め、用いることは、全て意根の意念によるものです。意根が意念で気を手心の労宮穴に集め、気が一定の強さに達した後、意念で手を伸ばして気を打ち出すことを想います。功夫が至った者は山を崩し壁を崩し、列車を停滞させ、自動車を逆走させます。これは純粋に気功の域です。しかし気功であれ、何の功法であれ、全ては意根の念力を訓練する作用であり、念が強ければ心力が強く、気が強ければエネルギーが強くなり、その後は意のままに振る舞い、向かうところ敵なしとなります。
或る者は言うでしょう「意根に念はなく、全ては意識の念である」と。それでは、意識で念じてみてください。如来蔵があなたを顧みるでしょうか?念は有効でしょうか?作用を実現できますか?意識の念による気功は、何の功法もなく、何の役にも立ちません。花拳繍腿の如く、飾り物に過ぎず、芝居を打っているだけです。
気は念に随って流れるとは、意根の念に随って流れるのであり、意識の念に随って流れるのではありません。そうでなければ誰もが意識で念じられますが、気を練り上げた者は極めて少なく、しかも相当の期間をかけて練らねば成功しません。なぜこれほど長く練る必要があるのでしょうか?それは意識を用いて意根を訓練するためです。意識は容易ですが、意根は容易ではありません。衆生の主な違いはこの意根にあり、意識は皆思い念じますが、何の役にも立ちません。
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