衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年06月11日    木曜日     第1 回の開示 合計2392回の開示

音声の種類

色声香味触には様々な種類があります。瑜伽師地論の第一巻によれば、音声の種類は幾つかに分かれ、味塵もまた幾つかに分類され、触塵も同様であり、香塵もまた然りです。法塵は五つの塵と和合しつつ、同時に幾つかに分かれるものであります。

音声には衆生自身の如来蔵より生じるもの、色身と外界の和合触より生じるもの、単純に外界の音声、衆生が互いに交わり発するものがあります。衆生自身の音声は、自己の如来蔵が単独で生み出すものであります。身体より発せられる音声も幾つかに分かれ、意識的覚観思惟より生ずるもの、食物の吸収消化過程で生じるもの、内臓の病変等によるもの、意根が飲食咀嚼嚥下を調節して生ずるもの、胃腸の蠕動によるもの、自発的呼吸より生ずるもの、内臓の運行によるもの(例えば心音)があります。

これらの音声はいかなる因縁で生じようとも、自らの耳根に落ち、耳識意識によって弁別される時、全ては黒匣子の中の音声に過ぎず、黒匣子の外に出ることはありません。全ては生滅変異して常住せず、空なるものであり、また無我であります。我々が触れる六塵は皆この如く、心がこれらの塵境に転ぜず、また塵境の中に染まらぬ時こそ、自在解脱の境地であります。

心が六塵の境界に落ちぬとは、境界の外に跳び出し、境界を超越し、境界に拘らぬことであり、これによって初めて境界を明らかに観察し、清浄無迷となるのです。心空の境地には「有人無境」と呼ばれる空境がありますが、これは空心空人を指すものではありません。この基盤の上に更に観行を深め、心と行人を観察する時、我見を断じることができます。ただ境界を空ずるだけでは我見を断ぜず、主観的識心の我が未だ空じられていないのです。多くの人々が五蘊を観行する際、必ず漏れが生じ、観行が不完全なため、我の一部を断ずるのみで全体を断じ得ません。そしてこの一部の我も次第に再び我と執着し、功徳は尽き失われるのです。

——生如法師の開示
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