衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年06月13日    土曜日     第1 回の開示 合計2395回の開示

推論は現量に等しいものではありません

仏は一切の法を現量において知り覚っておられる。何が何でないかを即座に覚知され、推理に頼る必要が根本的にない。現量で知ることができぬからこそ推理を用いるのであり、それは意根と意識の智慧力が不足していることを示す。正確な情報を得るには推理に依存せざるを得ないのである。しかし仏は福徳と智慧の両面において円満具足した無上の智者であられ、現量で知らぬ法は存在しない。

因位の菩薩たちや全ての衆生は智慧が未だ円満でなく、一切の法について現量で知り証することができない法がある。故に時として推論という方法を用いざるを得ず、使用頻度が多ければ多いほど智慧の欠陥を露呈する。智慧が十分な者は即座に知覚し、何らの障害もない。よって参究と求証の過程において推論を用いる場合、その者に現量の智慧がなく、やむを得ず二次的な方法、理に適わぬ方法で情報を得ていることを示す。推論は推測や忖度に類し、観察力判断力が不足しているため、推量せざるを得ず、確信を持たぬ判断を下す。得られた結論は現量のものではなく、完全に正しいとは言えず、たとえ正しくてもそれは偶然の一致に過ぎない。

現量観察の智慧ある者は、自説を極めて確信を持って表明する。智慧不足の者は半ば確信的な表現を用い、智慧なき者は疑問文で表現し、信心の不足を露呈する。推論を用いる者は信心が足りず、他人から疑問や批判を受けると内心動揺し、確信が揺らぐ。これは情報獲得の源泉に確信が持てぬことを示している。

要するに仏法修証の過程において、推論はあくまで補助的手段であり、やむを得ず用いた後、参究の方法によって推論の正当性を検証すべきである。推論は意識を用いるが、真の参究は意根を用いる。意根は主宰者であり、その導き出す結論は当然ながら力強く確固たるもので、いささかも動揺せず、誰もこれを覆すことができない。意識の導く結論はそうではない。主宰者ではないため、主宰者の審査を待たねば最終決定できず、故に心中に不安が生じる。仏法修証の最終段階においては、意識を用いることを極力控え、用いないことが最善であり究竟である。これこそ大丈夫のなすべきことであり、小根小器の者たちが及ぶところではない。

——生如法師の開示
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