衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年06月21日    日曜日     第1 回の開示 合計2414回の開示

福徳についての説法

仏道を学ぶ者が仏法によって修得した福徳、あるいは弘法のために修めた福徳は、定数があり、限量のあるものです。限量ある福徳を世俗法に多く用いれば、仏法修証に用いる福徳は少なくなり、この二者は秤の両端のようなもので、一方が下がれば他方が上がる関係にあります。例えば世俗法において仕事の待遇が良くなり、地位が上がり、名誉を得て、立場が高くなり、権勢を握り、収入が増え、人縁が良くなるなど、要するにますます順調になり、快適さを増し、家庭関係なども良くなっていくような場合です。

これらはすべて、仏法学習と弘法活動の中で修めた福徳を使い果たしているのです。そうすると福徳は如来蔵銀行から現金化され、残高はわずかとなり、仏法修証に用いる分が足りるかどうかは定かではありません。もし不足すれば修行は依然として進まず、再び福徳を修めなければなりません。修めた福徳を再び世俗法に用いれば、修行に必要な時に依然として福徳が不足します。この循環の中で、いつ自身を修めきることができるでしょうか。

したがって福徳を修める際には、この福徳の何パーセントを修道に用いるかを発願し、できる限り世俗法に用いないようにすべきです。それは採算が合わず、現金化して使い切れば無くなってしまうからです。お金を多く稼げば稼ぐほど地位が高くなり、福徳を現金化すればするほど如来蔵の預金は減り、そうなれば何をもって道業を支え、修行成就を成し得るでしょうか。

金銭を多く得ることや権力名声が大きいことが最善だと思ってはなりません。弘法のために収入を得る場合を除き、自身の如来蔵銀行の預金が減少し続ければ、修行を支えることができなくなります。聡明で智慧ある者は常に如来蔵銀行に相当額の預金を保持し、世俗法のために現金化したりしません。世俗法は程々に過ごせれば十分で、衣食足りれば良いのです。修行に用いる福徳は必ず十分に、余裕をもって保証しなければならず、そうしてこそ修行は順調かつ迅速に進むのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

第二の月を辿りて第一の月を求むるは即ち参禅なり

次の記事 次の記事

意根の構造

ページのトップへ戻る