衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年06月28日    日曜日     第1開示 合計2431開示

善法非仏法

問:雷鋒は我見を断じたでしょうか?彼の心の中にはまだ「我」があったでしょうか?己を捨てて人に尽くし英勇に義に殉じた人は我見を断じたでしょうか?心の中にはまだ「我」があったでしょうか?

答:仏法とは仏に学んで修行し成仏する法であり、世俗法の善法や人間の善法は仏法ではありません。外道にも善法はありますが、解脱の理を明らかでない限り、善法によっても衆生は解脱できず、人天の福報を得るだけで、報が尽くればなお三悪道の生死流転を免れません。生死流転を避けたいなら、善法による生死の繋縛をも観行し、善法を空と観じて、心に善法を執着させないようにしてはじめて解脱を得ることができるのです。

また、解脱を得る主体の主人は意根ですから、意根が五陰身に対して抱く一切の我見、如実でない見、如理でない見をことごとく滅除しなければなりません。五陰の中のいずれの法をも我と実と見ないようになって、はじめて解脱の希望が持てます。我見を抱いたまま善法を行じるのは、なお生死の繋縛です。真に解脱したその真心自性には永遠に善心がなく、善法を行ぜず、悪心もなく、悪法を行ぜず、世俗心もなく、世俗法を行じないため、これら一切の法に繋縛されないのです。それこそが解脱した心なのです。善法やいずれか一つの法に偏執するならば、いずれも解脱を得ることはできません。

——生如法師の開示
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我見我執の種々の表現

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