もし人がひたすら自己にこだわり、必ず他と異なり、独自の行動を取り、あらゆる人為的な操りや安排に従わず、いかなる事柄にも順応することを拒むならば、この人は「我見」を断じた無我の人か、それとも「我執」が特に重い人でしょうか。心中に「我」を持つ者は、自己の感覚や感情を重視し、自己の特権や属性に固執し、自己の独自性を気にかけ、大衆の中に自己を融和させることを好まず、自我を隠し滅することに抵抗します。心中に堅固に我を執着し、捨て去ることを拒みます。いかなる人の要求にも従わず、管理や安排を受け入れず、指導に服従せず、また自らを律することもできない者は、非常に重い我見を持つ者です。たとえ自らを律することができても、依然として我見の重い人です。
我執を断じ尽くした大阿羅漢の大目犍連は、悟りを証した後、内心に全く自我の存在感がなく、完全に衆生の心に随順しました。衆生が彼にどうあってほしいか望めばその通りにし、望まないことは決して行いませんでした。たとえ衆生が横暴で理不尽な要求をしても、いささかの不平もなく服従し、決して逆らいませんでした。我見を断じた後は無我の人となり、内面に自我はなく、また人・衆生・寿者相も存在しません。ところが、ひたすら自己にこだわる人は、これと真逆の道を歩んでいるのではないでしょうか。まさに正反対です。我がないのに、どうして我を作り出す必要があるのか。これは我見と我執を増長させる行為であり、よって我見我執は生死の流転を尽きることなく、わがままな人は必ず苦しみを味わいます。
自己の存在感を強く主張し、衆生のいかなる意思にも従おうとしない人は、強烈な自我主義者です。一切に屈せず、譲歩しない人は、我の性質が非常に強い人です。すべてを己に及ばずと見なし、人に対して言葉遣いが鋭い人は、我執が極めて深刻な人です。我執の重い人は我見を断つことが困難です。もし人が常に「私が正しくあなたが間違っている」と主張し、是非を厳格に区別し、譲歩や随順を知らず、寛容さを示さないならば、それは我見我執が非常に深刻な人であり、菩薩が持つ衆生に随順する心性を欠いています。
もし人が生きる上でひたすら自己の感覚にこだわり、内心の快適さを追求し、奔放で拘束を嫌い、周囲の状況や世界のありようを顧みず、いかなる制約も受け入れないならば、この人は我見我執が極めて重く、まさに極重極重の人です。この世で我見を断つことは非常に困難です。
すべての人は常に自らを振り返り、内省し観察すべきです。自省自察を実践するには、自らの内面世界により注意を向ける必要があります。あらゆる心の動きを観察し検証し、道にそぐわない心念を見つけたら、速やかに修正し消し去らねばなりません。これを放任してはならず、これこそが修行です。真の菩薩は、世俗に流されることもなく、また世俗に逆らうこともありません。この中間のバランスをどう取るかは、菩薩の修養と智慧、巧みな手段にかかっています。一般的な菩薩はこのような巧みな処世の智慧を持たず、世を渡る上でいくらかの障害を抱えています。
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