時間は心不相応行法であり、虚妄で実在しない法であります。なぜ時間が実法ではなく幻のような法であると言えるのでしょうか。私たちが一生や半生と感じる時間は、いったい何を基準に計算されているのでしょう。
五蘊の身心が一年の運行を経ることを一歳と申します。一年三百六十五日というのは太陽の運行に基づいて定められたものであり、あるいは地球が太陽を周回する運行によって設定されたものであります。一日の時刻は太陽光が地面に投射する角度によって定められ、あるいは太陽光下における物体の影の長短によって設定されたものであります。しかし地球は仮の法であり、太陽や光も仮の法、地面の物体も仮の法、影も仮の法であります。これらの仮の法が和合して、真実の法である時間を得ることができるでしょうか。明らかに不可能であります。
このように現れた時間は、物質的な色法よりもさらに虚妄であり、自らの心と相応しません。心がどのような状態であれ、これらの仮の法は規則正しく運行し、一日の時間は過ぎ去ってゆきます。日々の時間が積み重なって一年となり、年々の時間が積み重なって十年となり、さらに積み重ねれば半生が過ぎ、また積み重ねれば一生が終わり、命尽き果てます。ゆえに時間を光陰や時光とも申しますが、これは太陽と物体を主として現れた虚妄の相であり、実際には実体がなく、何らの相も存在しません。人々が指折り数えようとも、どう計算しても時間という法は存在せず、すべて錯覚、誤った計らい、虚妄の分別、戯論であります。
時間はまた心識の運行変化の過程を表しております。一念一念、一行一行が連続して運行し、前後の相続によって時間が現れます。心念も真実ならず、行為も真実ならず、相続の相も仮のものであれば、時間もまた真実ではありません。時間を空じ去り、空間を空じ去り、物質的な色法を空じ去れば、私たちの心は大いに軽くなり、圧迫感も緊張感もなく悠然と自得の境地となります。さらに身心を空じ去れば、自我は解放されるのであります。
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