衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2020年07月10日    金曜日     第1 回の開示 合計2460回の開示

執着とメンツを手放すことは自我を手放すことです

仏法においては禁取戒というものがあります。これは外道が設けた理にかなわず解脱できない戒めであり、外道が解脱を理解できない愚かさを示しています。故に仏法の修行において我見を断つには、外道の禁取戒を捨て去り、その戒めを守ることを止めなければなりません。そうして初めて正しく仏戒を保ち、我見を断つことができます。従って私たちは過去に立てた無意味な誓願や誓言に固執し続け、精力と心力を消耗する必要はありません。執着があれば生死があり、解脱できません。菩薩は大いなる智慧を持つべきです。菩薩の智慧は世間の商人や様々な投機者、政治家らをはるかに超えています。利益のないことに菩薩は時間も精力も費やしません。利益あること、あるいは大いなる利益をもたらすこと、最も重要なことのみを行います。

人前での不必要で重要でない体面を捨てることは、すなわち一種の「我」を捨てることです。自分に対する無意味な評価や見方を気にする必要はありません。「我」が存在しないのに、なぜ不合理な評価を気にする必要がありましょうか。正しいことを行い、人々に利益をもたらすことを行い、時間を浪費せず、仏菩薩と衆生に恥じない生き方をしていれば、それで良いのです。不合理な執念に固執し融通が利かないのは愚かさです。執念があれば、魔王波旬がその心理を利用して愚行をさせます。無心であれば利用されることもなく、隙をつかれることもありません。利用されなければ悪果も生じません。仏陀は常に菩薩に教えられました:虚偽の名誉や名声に囚われず、毀誉褒貶に心を動かさず、ただ真理を堅持せよと。

自らの修行目標を調整し、直接目標に向かって進みなさい。不必要なことに心を煩わすのは損得に合いません。意地ではなく智慧を用い、他人の目に映る「失敗者」となることを恐れてはなりません。実際のところは自分だけが知っているのです。他人の心中に存在する不必要な自己像を考慮する必要はありません。それこそが「我」なのです。様々な「我」を滅することが真の我見断ちです。元々「我」は存在しないのに、何を気にする必要がありましょうか。

——生如法師の開示
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