問:未明の時間帯にまだ起床しておらず、ぼんやりとしていて眠ったような眠らないような、目覚めたような目覚めていないような状態にあるとき、意根は深く思量 (manasikāra/manana) しており、意識の働きは非常に微弱です。これは夢を見ているのではなく、定中 (samādhi) にいるということでしょうか?
答:目覚めたような目覚めていないような状態では、意根は深く思量することができ、神様は一晩中参究し思量し続けることができます。朝まもなく目覚めようとする時に意識が現れ、意根が思量していることを発見するのです。目覚めたような目覚めていないような時は意識が弱いので、意根はもちろん六識の干渉のない定中 (samādhi) にいるわけです。深夜に意根が思量し参究している時も、六識の干渉がないので、定中 (samādhi) にいると言うことができます。さらに、朝目覚めた途端に、意識が意根が気にかけて思量していた結果を知ることさえあり得ます。夜寝る前に、考える必要のある問題を設定しておけば、意根が非常に注意を向けていれば、その夜一晩中、意根はずっと思考し思量し続け、目覚めるまで続きます。意識が滅しても、意根は相変わらず働いており、しかも疲れを感じません。こうすれば多くの修行時間を節約でき、しかも直接的で効率が速く、意識が改めて意根を熏習する必要がなく、回り道を一つ減らせます。唯識の法が最も究極なのです。
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