境界を求めず、境界を滅却することなく、これが禅定を修める方法であり、禅定を修める際に用いるものである。定力が具足した時、観行が必要な際には、境界の上に観行を為さねばならない。修行はまず禅定を修め、その後智慧を修め、仏法を観行するのである。定慧が等しく保たれてこそ、初めて仏法を証得することができる。定力無くして観行に臨めば、観ずる所は全て成就しない。その最良の結果とて解に止まり、解のみでは靴の上から痒い所を掻くが如く、遠くの水では喉の渇きは癒せぬ。解く所のものは自己の所得に属さず、意根が無明を破らざる故に、解は何ら実際の用を為さないからである。
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