目が色を見るには光が必要であり、光は色を見る条件の一つである。光がなければ色を見ることはできない。光は色塵を顕現させる役割を果たしており、色塵が光源の中にあれば、色塵を顕現させることができる。その後、如来蔵は色塵上の四大の微粒子を摂取し、眼の浮塵根に伝達する。さらに神経伝達システムを通じて黒匣子に伝えられるが、眼識が認識する色塵などの六塵境界は全て虚妄の影であり、元の六塵境界とは一定の差異がある。黒匣子内の六塵は外界の実体ある塵境ではなく、幻化された鏡像のようなものである。
屈折の原理を用いれば、眼識が見る黒匣子内の色塵が外界の真の原色塵ではなく、変化を遂げた原色塵に似た色であり、真実の色ではないことが説明できる。光の伝播には一定の速度があり、異なる媒質中では伝播速度が異なる。これは異なる媒質の物質構造が異なり、抵抗が異なるためである。光が二つの媒質を通過する際、媒質の境界面で伝播方向が変化すると屈折現象が発生する。媒質の境界面にちょうど色塵が存在すれば、光はその場所で色塵を顕現させ、二つの媒質中で顕現される相は変化を生じる。
例えば空気と水という二つの媒質は、光の伝播に対する抵抗が異なる。光が空気中から水中に伝播すると、伝播方向が変化し、顕現される色塵も変化するが、色塵自体は変化しない。例えば水中に半分挿した箸の場合、光は空気中の箸と水中の箸をそれぞれ別々に顕現させ、位置が変化するため、眼識は箸が曲がって見える。この曲がって見える現象は、勝義根の黒匣子内に現れるのか、それとも眼根に伝達される前の外相分本質境において現れるのか。
もし外色塵本質境の箸が曲がっているなら、水から箸を取り出した後、箸は曲がったままなのか。本質境の箸はどの媒質中にあっても変化せず、もし変化するなら媒質から取り出した時に形が変わるはずだが、実際には変化せず元のままである。黒匣子は人を欺くのか。眼識は人を欺くのか。あなたはまだ自分の目を信じるのか。見えるものが全て真実だと信じるのか。六識が了別する一切法が真実だと信じるのか。まだ自信があるのか。毎日あれこれ論じ、これが正しいあれが間違いと言えるのか。本当に何かを見極めたと言えるのか。
目撃で人が物を盗むのを見ても、必ずしも盗みとは限らない。現行犯で押さえても事実とは限らず、証人や証拠があっても真実の証拠とは限らない。殴られ罵られても必ずしも憎まれているわけではなく、世話されても必ずしも愛されているわけではない。言葉が鋭くても必ずしも冷酷ではなく、雷鳴轟く様も必ずしも残忍ではない。眼光が正しくなければ真実を見ず、心光が正しくなければ事実を感知できない。
箸の曲がりは実際には光がもたらした錯覚であり、箸自体は曲がっていない。光の伝播方向が変化したため、箸の相対的位置関係が変化したように映るだけである。如来蔵が光に顕現された二つの箸の影を勝義根に伝達すると、眼識と意識は曲がった箸を見るのである。
同様に、陽光が水中に入射すると光線の方向が変わり、水を浅く映し出すが、実際の水は浅くない。浅く見えるのは眼識と意識の錯覚である。光線は水中の魚の位置も浅く映し出すため、その位置で魚を捕まえようとしても捕まらない。魚は眼識の見える位置ではなく、その斜め下方に存在し、眼識では見えないのである。
光明が我々に錯覚をもたらすように、暗闇もまた錯覚をもたらす。暗闇の中では、何か恐ろしいもの、予測不能なもの、制御できないものが自分を脅かすのではないかと感じるが、実際には何も存在しない。ただ独頭意識が妄想を巡らせているに過ぎない。
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