衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年07月23日    木曜日     第1 回の開示 合計2484回の開示

意識と意根心行の区別

衆生の心理状態は、意識の層面と意根の層面という、浅深二つの次元に分けられます。意識そのものは受動的であり、主導権を握るためには意根に影響を及ぼし、薫染に成功して初めて意根が意識の考えに従い相応の決定を下します。もし意識が意根の薫染に失敗すれば、意根は従来の習性に従って主導し、意識の思想や助言は作用しません。

意識の全ての心行造作は何によって生じるのでしょうか。意識は何故に生ずるのか。意根が法塵に触れた後、詳細な分析判断を要する際、如来蔵が対応して意識を生じさせるためです。意根が造作を欲する時、必然的に意識を生起させて自らの造作を補助させます。なぜなら意根自体は特定の法において造作不可能であり、この時意識が代わって造作を行う必要があるからです。

例えば怒りという事象から意識と意根の心行の違いを見ると、意識が怒る時に表れる行為は何によって生じるのでしょうか。それは意根の怒りによって生じます。意根が憤りを発散させたい、あるいは自らの怒りを表現したい時、意識あるいは六識を借りて内心の憤慨を表現し、この時六識は憤怒の身行と言語行を表出します。怒りに際しては多くの表現が生じ、例えば険しい表情、悪口、握り拳・振り上げる手・相手を指差すなどの身体動作、これらは全て意識と身識が共同で造作したもので、意根の心行に順応して造作され、意根の心行を表現しています。

しかし瞋業を造作した後の両者の反応には明らかな差異があります。意識は比較的理に明るく、直ちにこれらの行為の善悪を反観し、先程の行為が確かに誤りであったと認識し、その理由を即座に理解できます。意識が理解しても、意根は未だ悟っておらず、依然として怒りの感情を抱えています。意識はこの時「もう怒るのは止めよう、そもそも自分が悪かったのだから」と説得しますが、意根は依然理解できず、怒り続けます。

意根が極度に憤怒した時、意識は全く制御不能となります。例えば意根が人を殴打したいほど激怒した時、意識側では人を打つのは良くないと感じていても、身体は制御不能に殴打行為に及びます。意識は意根を制御できず、意根は自身の習性に従って造作を続け、如何ともし難いのです。六識は単なる共犯者として、意根に代わってこれらの行為を造作するしかなく、これが意識が意根を説得できない時、意根の心行に随順して表出する行為なのです。

——生如法師の開示
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