世尊が霊山会において、天人より捧げられた一枝の花を手に取り、大衆弟子たちに向かってほほえまれた。人天一同は茫然とする中、ただ大迦葉のみが世尊に笑みをもって応じた。世尊は肉眼・天眼・法眼・仏眼をもって大迦葉の禅宗の心の頓悟を見通され、「我に正法眼蔵涅槃妙心あり。実相は無相なり。これを摩訶迦葉に付嘱す」と宣べられた。これにより大迦葉の頓悟が印可され、彼は娑婆世界における禅宗の初祖となったのである。
涅槃妙心とは、全ての衆生が本来具える真実の自性を指す。常に涅槃に在りながら微細に現法を顕し、これこそが最も真実の法相である。しかしこの法相には世間的な相が全くなく、色声香味触法の相を離れている。衆生の七識は無明の覆いにより、この涅槃妙心を識ることができない。この公案においては、世尊の涅槃妙心が常に顕現していたのみならず、大迦葉の涅槃妙心も、さらには無数の人天大衆の涅槃妙心も常に顕現していた。しかし衆生はこれを識らず、心が無明に覆われ、霊性の智慧が開けず、慧眼が現前しない。何と奈何すべきか。
ただ大迦葉こそ仏陀の第一弟子に恥じず、仏の心を悟り、仏陀が花を手に大衆に示された時、慧眼をもって仏陀の妙精明心を見抜き、微笑みをもって応じた。自らの妙精明心も仏陀に見透かされ、師弟の間に心の交流が生じ、以心伝心で文字言語を用いずに、禅宗の妙法が衆目の前で伝授された。後に世尊が「我に涅槃妙心あり……」と述べられた一節がこれを補足している。
禅宗の法が教外別伝たる所以は、伝える妙心妙法が文字言語に局限されざるが故である。もし文字言語に限られるならば妙ならず、妙心の妙たる所以は一切の法に行じ、いかなる法にも拘わらず、言語文字に係わらず、あらゆる処に遍在することにある。清浄なるも汚れたるも、音声あるも無きも、文字あるも無きも、全ての法上に活現している。
世尊は四十九年にわたり言語文字で三蔵十二部経を説き、至る所に涅槃妙心を顕された。これは教門や理門であるが、なお迂遠な面があった。今回世尊は大衆に対し、最も直接的に、端的に、爽快に、人心を直指するものを示現された。一言も発せず、ただ一枝の花を大衆の前で揺るがせられたのである。ああ、大衆は焦るばかり。世尊の意図が測りかねる中、大迦葉は思索を廃し瞬時に頓悟した。これが意根の頓悟である。意識は漸悟である。思索に頼るものは真実ならず、祖師が見れば一喝で打ち砕かれる。情思意解の輩に何の甲斐があろうか。教外別伝の法は迅速果断、思索を許さず、考えている間に機会は失せる。この場で逡巡する者があれば、直ちに喝破されるべきである。
正法眼蔵とは、この眼のみが最も正しく、他の眼は全て生滅・無明煩悩に汚れ、自立せず依拠を要する故に正しからざるを指す。「蔵」は含蔵の義、涅槃妙心が一切法の種子を蔵し、万法を生起し、全てを内包することを意味する。これは無から有を生じ、幻化の世間を顕現させ、大衆に依拠と執着を与える極めて妙なる理である。
3
+1