意識の智慧ははるかに意根より勝れている。一つの理由は、意識の縁する対象が意根よりはるかに少なく、主導識ではないため、何事にも主宰する必要がなく、それほど多くの執着がなく、問題に集中して思考しやすく、境界を了別する智慧が比較的明瞭であるからである。意根が縁し、執着し、了別する法は非常に多く、如来蔵から生じる一切の法を意根は縁することができる。古今一切の自己に関わる事柄、身根における刹那毎の微細な変化を意根は了別し、知ることができる。自己に関わりのないことでも、攀縁の習気によって縁を攀じ執着する。したがって心念が集中しにくく、了別の智慧が弱く、法に対する認識が明瞭でない。
意識の智慧が意根より勝れるもう一つの理由は、意識はただ一世に存在し、環境による熏習が極めて軽微で、意根ほどの煩悩や無明がなく、またそれほどの業障もなく、遮障が少ないため、意識は意根より聡明である。
もし意根の縁する対象が比較的少なく、心中の無明が甚深でなく、無始劫以来無量の生死業障を累積していなければ、意根も意識のように智慧を持ち、たとえ証拠が不十分でも合理的な結論を判定し、真理を証得することができる。しかし意根はそうではないため、我々の修行実証がかくも困難なのである。
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